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第三十一回

王綏が董一族の邸に輿入れしてから、数ヶ月の時が流れた。


日夜、荒野を駆けて野盗を討伐する仲穎の武名は地道に高まり、邸の内では、リアの差配する小さな交易が董家の財力を底から支えつつあった。


その日、臨洮の市場(互市)は、西域の商人が連れてきた駱駝や、土着の民が持ち込んだ羊毛の熱気でごった返していた。


董家の買い出しと交易の仕入れのため、人だかりを歩くリアと良の姿があった。

良は、荷馬車から下ろした山のような穀物や仕入れ品を両腕に平然と抱え、一人の実直な従者(雑用係)として、黙々とリアの後ろに従っている。彼の意識は、今日の邸の仕事を完璧にこなすことだけに注がれていた。


市場の片隅から、漢人の馬喰ばくろうたちの怒号が響いた。


「蛮族め、扱いかねる暴れ馬を連れてくるな!」

「こんな人を乗せることもできん子馬に、正当な値など払えるか!」


人だかりのなかで、燃えるような赤毛の幼駒(子馬)が激しくいななき、前足を振り上げて暴れていた。その手綱を、焦りと苛立ちの中で必死に抑え込んでいる羌族の男がいた。


二十四歳になったガルである。

ガルは今、部族の子供たちの今夜の食い扶持(日銭)を稼ぐため、一人の「馬商人」として、実直に、かつ懸命に商売をしようとしていた。


人だかりを通り抜けようとしたその時、良の目がガルを捉えた。


両親を亡くして以来、鉄石のごとき沈黙を貫く良の脳裏に、かつて戦場で大切な主人(仲穎)と命懸けの名乗り合いを演じた、あの羌族の猛者・ガルの姿が鮮烈に蘇る。


しかし、良は動じなかった。

今は日常の仕事中であり、ガルも一人の商人として実直に馬を売ろうとしているに過ぎない。良は余計な殺気を放つこともなく、山のような荷物を抱えたまま、一人の従者として静かにリアの後ろに佇んだ。


一方、手綱を握るガルは、通りかかったリアの姿に目を留めた。


様々な人種を見て育ったガルの目は、リアのエキゾチックな顔立ちや、商人と渡り合う堂々とした身のこなしから、彼女が漢人ではなく「西域の血を引く女」であることを瞬時に見抜いた。


ガルは手綱を握り直し、その西域の女に向けて、不敵ながらも商人としての敬意を込めた口調で声をかけた。

「……おい、そこの西域の姉ちゃん。この馬を見ていかねえか? 気性は荒いが、西方極奥の野生馬の群れから捕まえてきた神馬の末裔だ。漢人の臆病者どもには買い叩かれそうになってるが、目利きの出来るあんたになら、正当な値で譲ってやるぜ」


ガルにとっては、部族を生かすための、極めて実直なビジネスの提示であった。


状況を把握したリアは、大らかな微笑みを浮かべ、馬の獰猛な野生の目を見つめながら一歩入った。彼女は自らの素性は一切明かさず、ただ目の前の商人の焦りを見抜いた提案をする。


「いいお馬さんだね。でも、そんなに手古ずっていたら、今夜の日銭も稼げやしないよ。……あんたが言う正当な対価、私たちが今ここで払いましょう。冬越しの酒や食料、今夜のうちにあんたの部族に届けさせるよ」


ガルは、この西域の女が、自分の部族が今まさに必要としている物を見抜いたことに、商人として驚き、深く感心した。


リアが良に目配せし、手付の品を渡そうとしたその時、市場の周囲にいた漢人の馬喰たちが、リアたちの姿に気づいてヒソヒソと噂話を始めた。


「おい、あれは臨洮の治安維持の頭……董仲穎のところの使用人たちじゃないか」

「ああ、あの凄腕の若き役人か。最近、野盗を容赦なく叩き潰して武名を上げている董一族だな」

そのヒソヒソ話を、羌族の優れた聴覚で聞き逃さなかったガルの目の色が変わった。


ガルはハッとして、リアと、その背後で山のような荷物を平然と抱えている良の姿を凝視した。

「……董仲穎だと? あの戦場で、俺と命懸けで名乗り合った、あのイカれた漢の家か! なるほどな……西域の聡明な姉ちゃんが、あいつの家を裏から支えてるってわけか。あいつの身内なら、絶対にこの馬を買い叩いたりしねえ。話は決まりだ、姉ちゃん! この赤毛の怪物はおんたらに売る。俺たちの冬越しの酒と食料、きっちり約束通り払ってくれよな!」


ガルにとっては、もったいぶる理由などなかった。あの信頼できる強敵・董卓の家だと分かったからこそ、最高の取引相手が見つかったと喜び、即座に商談を成立させて馬を売却したのである。


ガルは不敵にニヤリと牙を剥き、リアの横に佇む良を見据えて、一つだけ大きな言伝を託した。


「おい、大男。仲穎に伝えてくれ。……『もっと自分の直感を信じろ』ってな。あいつはかんの国の窮屈な紙切れ(法度)に大人しく収まるタマじゃねえはずだ。この馬を血の滲むほど調教して、次の勝負の時まで、せいぜい牙を研いでおけよ」


その時、取引が決まってガルの手が緩んだ瞬間、赤毛の幼駒が急に興奮し、リアに向かって前足を振り上げそうになった。


リアに危険が及ぶと判断した瞬間、良の動きに無駄はなかった。


山のような荷物を抱えたまま、空いた片腕(素手)を一閃させ、幼駒の太い首をグイと抑え込み、市場の土へと一瞬で、しかし傷つけないように優しくねじ伏せた。


ガルの目が見開かれた。荷物を持ったまま、素手の片腕だけで暴れ馬を制した良の怪力。ガルは戦いではなく、一人の馬商人として深く得心して笑った。


「ハハッ……見事な腕前だ! 董仲穎の周りには、やっぱりいい仕事人が揃ってやがる。今日の商いは大成功だな」


良は馬を組み伏せたまま、何も言わず、コクンと静かに一つだけ頷いた。

それは、主人のための日常の仕事を果たす男の、沈黙の誓いであった。

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