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第三十回

涼州(りょうしゅう)隴西郡(せいろうぐん)臨洮県(りんとうけん)


国境の乾いた風が吹き抜けるこの地は、漢朝の版図の最果てであり、土埃と血の臭いが日常の背景に溶け込む荒野である。


その日、董一族の邸の前に、漢朝の法度に則った厳かな婚礼の馬車が到着した。


太守・王奐おうかんの差し向けたその馬車から降り立ったのは、彼の養女となった豪族の娘、王綏おうすいである。


彼女の佇まいは、まさに「凛とした百合の花」であった。


匈奴の襲撃によって実父母を惨殺されたという暗い過去を奥底に隠し、冷徹な仮面を被ることで自らの気高さを守ろうとしている。後漢の厳格な礼節を叩き込まれた彼女の白い衣服には一点の汚れもなく、背筋は定規で測ったようにまっすぐであった。


「王奐が養女、王綏にございます。本日より董一族の正室として、漢朝の法に違わぬよう、この家の秩序を正しに参りました」


王綏の声は、張り詰めた糸のように鋭く、邸の門前に響いた。それは新参者としての緊張を隠すための虚勢であり、正妻としての境界線を引く百合の棘でもあった。


彼女を邸の入り口で迎えたのは、リアであった。


西域の色彩豊かな布を纏った彼女がそこに佇むだけで、どこか陰鬱だった董家の庭に、大らかな「太陽」のような暖かな光が差し込むかのようであった。しかし、その瞳には、古い慣習を奏でる「琵琶」の調べのような、自由で哀愁を帯びた賢さが宿っている。


リアは物静かに一歩下がり、完璧に洗練された美しい所作で深く一礼を返した。


「董一族の差配をお預かりしております、リアと申します。王綏様、ようこそ臨洮の邸へ。漢の国の厳かな法度は、砂まみれの私どもには眩しいもの。至らぬ点も多いかと存じますが、今日からは王綏様こそが、この家の正しき主母あるじにございます」


リアの声は低く、心地よく響いた。決してへりくだっているわけではない。正妻である王綏の立場へ最上級の敬意を払いつつも、荒野を生き抜いてきた者としての揺るぎない芯を感じさせるものであった。


そこへ、地を揺らすような重い足音が近づいてきた。

馬車から下ろされた山のような婚礼の荷物を、事もなげに両腕に抱えた巨躯の男が現れた。両親を亡くして以来、鉄石のごとき沈黙を守る従者・良である。さらにその足元には、鋭き嗅覚と聴覚を持つ黒き番犬・サミルが、静かに影のように付き従っていた。


王綏がその圧倒的な体躯にわずかに身を固くしたのを見て、リアは微笑みを浮かべ、穏やかな声で二人を招き寄せた。


「王綏様、驚かないでくださいね。この無口な大男は『良』。阿卓の忠実なる従者で、この邸の雑事や買い出し、家事全般を一手に見事にこなしてくれる、董一族の強固な土台です。牛馬のような力持ちですが、とても実直なひとですよ。……そして、その足元にいる黒いのが『サミル』。邸の夜を守る、私たちの頼れる番犬です」


リアの優しい紹介を受け、良は王綏の姿を一瞥すると、何も言わずコクンと一つだけ深く頭を下げた。そのまま、大荷物を抱えたまま邸内へと運び込んでいく。サミルは新しく来た王綏の匂いを嗅ごうと小さく鼻を鳴らしたが、彼女の身体から放たれる緊張の気配を察したのか、深く追うことはせず、リアの足元へと静かに戻っていった。


リアの細やかな気配りによって、王綏の張り詰めていた肩の力が、ほんのわずかに緩んだ。


しかしその時、門外から再び重い足音が近づいてきた。


臨洮の治安維持(討伐)の任務から帰還した仲穎(董卓:21歳)である。


衣服には野盗の返り血が赤黒くこびりつき、獣のような泥臭さを纏っている。しかし、その瞳はかつての青き焦燥を完全に消し去り、地を這う大河のごとき寡黙なる威厳を湛えていた。師・アランの形見である聖域の強弓「骨喰ほねばみ」を背負ったその姿は、一役人の枠を超えた圧倒的な存在感を放っている。


完璧な官吏の姿を想像していた王綏は、仲穎のあまりの粗野さに息を呑んだ。しかし、仲穎は自分の凄まじい身なりを見て、慌てて足を止め、気まずそうに自分の衣服を見つめた。


「……王綏様、遠路はるばる、よくおいでくださいました。臨洮の治安維持の任務が長引き、このような血臭にまみれた見苦しい姿でお迎えすることになり、深くお詫びいたします」


仲穎は、アランの強弓を背負ったまま、王綏に向けて深く、そして不器用ながらも極めて誠実な一礼を捧げた。その声は低く、大河のような落ち着きの中に、新しく迎えた妻への真っ直ぐな敬意が籠もっていた。


「私の名は董卓、字は仲穎。至らぬ身ではございますが、今日より、あなたを私の一族の主母として、この命を懸けて必ず護り抜くことを誓います。どうか、この不調法な家をお許しください」


その誠実な言葉と丁寧な物腰に、王綏は目を見張った。外見の粗野さに反して、この男の根底には確かな礼節と、民や身内を想う熱き誠実さが息づいている。王綏の「百合の気高さ」は、恐怖ではなく、この男の放つ大河のような器と誠実さに、静かに包み込まれていく感覚を覚えていた。


リアはそんな仲穎の姿を温かい目で見守りながら、手際よく彼の背から「骨喰」を受け取り、布で彼の顔の泥を拭った。その所作には、長年連れ添った戦友としての絶対の信頼が満ちていた。


仲穎は、自身の前に並び立つ二人を見つめ、もう一度深く頷いた。


この二つの異なる価値観と美しさ、そして夫の誠実さが、やがて董一族を押し上げる両輪となる。手探りの、しかし確かな信頼を秘めた新しい家族の日常が、この涼州の荒野で静かに幕を開けた。

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