第二十九回
臨洮の邸に戻り、夜も更けた頃、仲穎は板の間の文机の前に一人座していた。
傍らには、良が淹れていった温かき茶が湯気を立てている。良は何かを察したかのように、一言も発さず邸の奥の巡回へと姿を消し、サミルもまた、その足元に従って静かに闇へと消えていた。
「…阿卓」
衣擦れの音と共に、リアが歩み寄る。その手には、今日市場で買い付けた羌族の布の目録が握られていたが、仲穎の、いつになく深く沈み込んだ眼光を見るや、その白い指先が僅かに動きを止めた。
仲穎は、一度深く息を吐き、王奐太守から切り出された縁談のすべてを、飾らぬ言葉で静かに打ち明けた。太守の養女となった地方豪族の娘を迎えること。それが、叔や厳を亡くした董の一族にとって、どれほど強固な地盤となるかという事実を。
言葉を終えた仲穎の視線が、リアの亜麻色の髪へと向けられる。
リアの瞳が、灯心の細き炎を映して大きく揺れた。
手にした木簡を握る指先が白くなるほどに力が入り、その胸が小さく、激しく上下する。共に死線を潜り抜け、互いの生を預け合ってきた歳月の重みが、その一瞬の動揺となって現れていた。
しかし、リアの佇まいが崩れることはなかった。
彼女は深く、深く目を閉じ、一息に肺の空気を吐き出すと、再び目を開いた。その瞳からは動揺は消え失せ、冷徹なまでに澄み渡った輝きが戻っていた。リアは、古い家柄や血統の因習に捉われぬ柔軟な知恵を持ちつつも、この漢という国が、いかに家格と一族の繋がりを重んじるかを、身に染みて理解していた。
リアは、困ったような、しかしどこか晴れやかな愛想笑いを浮かべ、文机の前にそっと膝を突いた。
「太守様の養女、か。……これ以上ない、上等な話じゃないの」
その声は僅かに震えていたが、言葉が進むにつれて力強さを帯びていく。
「阿卓。今の私たちがいくら市場で交易を広げ、あなたが荒野で賊を平らげたとしても、私たちはまだ、朝廷からは一介の辺境の豪族としか見られていないわ。けれど、王奐様の正しき血の繋がりを得れば、董の家は隴西で誰も侮れぬ存在になる。旻が洛陽で動くための後ろ盾としても、これほど頼もしいものはないわよ」
リアはそう言って、木簡を机の上に静かに置くと、仲穎の無骨な掌の上に、己の手をそっと重ねた。
「行きなさい、阿卓。一族の長として、この縁談を厳かに受け入れるのよ。私はここで、変わらずあなたの家を、財布を、守り続けてみせるから」
仲穎は何も言わぬ。しかし、己の胸中の割り切れぬ苦悩をすべて見抜き、その上で董一族の未来のために自ら一歩を引いて背中を押してくれたリアに対し、言葉を超えた、血よりも濃き畏敬と感謝が、その漆黒の瞳の奥で熱く猛っていた。
二人の間に、祝言の儀の約束は未だにない。しかし、この夜、湯気の向こうで交わされた無言の眼差しこそが、いかなる婚姻の誓約よりも固く、二人の魂を永久に繋ぎ止める契りとなったのである。




