第二回
董家の邸の裏庭では、先ほど市場から連れ帰った子犬が、新しく敷かれた乾いた藁の上で小さく丸くなっていた。泥を拭われ、見違えるほど綺麗になったその小さな体に、6歳の董旻がそっと寄り添っている。
「ほら、怖くないよ。たくさんお食べ」
董旻は、良の父母から分けてもらった温かい羊の乳粥を、小さな器に入れて子犬の鼻先に差し出していた。市場では兄の背中に隠れて震えていた無力な子供が、今は自らより小さき命を前にして、壊れ物を扱うかのように優しく見守っている。子犬が恐る恐る粥を舐め始めると、董旻の幼き顔に、ひときわ明るい笑みが弾けた。
その様子を、8歳の仲穎は良と共に、少し離れた廊下から静かに見守っていた。行き場のない命が救われ、弟の心にも温き情が育まれている。その事実に、仲穎は深く満足し、生真面目な口元に微かな安息の笑みを浮かべていた。
その日の夜、董家の奥座敷では、静かに知己の杯が交わされていた。
「いや、見事なものだな、君雅」
太守府の重苦しい公務から離れ、安堵の息を漏らしたのは、隴西太守たる王奐であった。彼は仲穎の父・董君雅の無二の知己であり、この一帯の正義と秩序の象徴たる、高潔な文官である。
「何がでございますか、太守殿」
実父の董君雅は、実直な公人としての厳しい表情を少しだけ緩め、酒を注ぎ返した。彼は西域の言葉をも解する俊才でありながら、妻を早くに亡くし、男手一つで息子たちを育てる深い孤独をその背中に滲ませている。
「昼間、仲穎が市場で子犬を救ったと聞いた。あの子の取った行動、そして商人への理路整然とした諭し方は、とても8歳のものとは思えん。君雅、お前の『礼儀』と『誠実』の教えが、実に見事にあの身に根づいている証拠だ」
王奐は満足げに頷き、座敷の隅で静かに控えていた仲穎を手招きした。
「仲穎、近くへ来なさい」
「はっ、太守殿」
仲穎は一礼し、物静かに、しかし凛とした足取りで王奐の前へと進み出た。その佇まいは丁寧そのものであり、大人の酒席であっても決して気後れする様子はない。
王奐は、仲穎の小さな肩や腕のあたりを、確かめるようにその手で優しく触った。その瞬間、太守の目が驚きに見開かれる。
「……素晴らしいな。君雅、あの子の骨格を見たか。まだ8歳だというのに、骨の太さ、筋肉のつき方が並の執事や武官の子供とはまるで違う。天が授けし強固な器だ。この涼州の厳しい風土に耐え、いずれ漢王朝を支える偉大な大器となるに違いない。私はあの子の将来が、今から楽しみでならんよ」
王奐の嘘偽りのない慈しみの言葉に、董君雅は静かに頭を下げた。
「勿体なきお言葉。なれど、器が大きければ大きいほど、それを満たす徳が伴わねば、やがて自らを滅ぼす刃ともなり得ます。ただ、真っ直ぐに育ってくれれば、親としてはそれ以上に望むことはございません」
父の厳しくも深い慈愛に満ちた言葉を、仲穎は静かに胸に刻んでいた。
正義の象徴たる太守の励ましと、実直な父の背中。仲穎にとって、世界はどこまでも正しく、自らもまたその正しき道の一端を担うのだと、疑いもなく信じていた。
座敷の窓からは、涼州の涼やかな夜風が吹き込み、親子の、そして知己たちの和やかな笑い声を優しく包み込んでいた。
【董君雅】
正史では潁川郡輪氏尉を務めた地方の微官。本作では董卓と董旻の実父であり、太守府の激務から病床に伏しました。「王奐太守を支え、涼州の民を守れ」と遺言し他界、一族の生存と覇道へ繋がる精神的原点です。




