第一回(西暦151年)
元嘉元年 (西暦百五十一年)
漢王朝の威光が陰りを見せ始めたこの年、涼州の国境に位置する臨洮の市場は、乾いた砂塵と人々の熱気が渾然一体となって渦巻く泥臭き交易の地であった。漢人のみならず、西域から流れてきた異族が交錯し、羊の油の匂いと粗悪な酒の香りが常に漂っている。
その喧騒の中を、三人の幼き足音が進んでいた。
先頭を歩くのは、董家の長子たる8歳の仲穎である。まだ幼さは残るものの、その面持ちは最高に生真面目で、物静かな佇まいを崩さない。その小さな背中には、実父である董君雅の教え――「礼儀」と「誠実」の二文字が、早くも確かな芯となって通っていた。
「兄上、あそこ、何だか怖い人がたくさんいます……」
仲穎の衣の裾をぎゅっと握りしめ、背後に隠れるようにして震えているのは、6歳になる実弟の董旻であった。まだ世の不条理を知らぬ無力な子供であり、市場の粗野な活気さえも、その小さな心を怯えさせるには十分であった。
「大丈夫だよ、旻。僕の側を離れてはいけないよ」
仲穎は足を止め、物静かで丁寧な口調で弟を諭した。その声には、幼いながらも兄として弟を護らんとする、確かな優しさが満ちていた。
その二人の背後を、影のように従う影が一つ。仲穎と同じ8歳でありながら、並みの大人を凌ぐほどの怪力を秘めた使用人の少年、良である。良は寡黙であった。余計な言葉は一切口にせず、ただ鋭い眼差しで周囲を警戒しながら、無言で主たちの背後を守っている。良の父母も含め、彼らはただの使用人ではなく、董家にとっては家族同然の、命を預け合える存在であった。
「おい、どけ! 役立たずの犬めが!」
突如、家畜を商う商人の荒々しい罵声が響いた。
仲穎が足を止めると、細い路地の隅に、泥にまみれた小さな子犬が転がされていた。親とはぐれたのか、それとも売り物にならぬと捨てられたのか、ガリガリに痩せ細り、商人の荒い足蹴りを浴びて悲痛な鳴き声を上げている。
行き場のない、あまりにも小さな命。
「……兄上」
董旻がさらに身を縮める。
仲穎は黙ってその光景を見つめていた。その胸の奥底にあるのは、理不尽に虐げられる弱きものへの、抑えきれぬ熱き義侠心であった。
仲穎は静かに一歩を踏み出し、子犬と商人の間にその小さな身を滑り込ませた。
「これ以上、その小さき命を痛めつけるのはおやめなさい。天の恵みたる命を無慈悲に扱うのは、人の道に反します」
八歳の少年の口から放たれた言葉は、驚くほど理路整然としており、丁寧でありながらも決して退かぬ強固な意志が宿っていた。商人は一瞬、その生真面目な眼光に気圧されたように言葉を失ったが、すぐに鼻で笑った。
「何だ、ガキか。なら、その薄汚い犬を引き取るか? でなければ、今すぐそこをどきな!」
「僕が引き取ります」
仲穎は迷わずに答えた。自らの懐をまさぐり、数枚の銅銭を差し出す。それは、父から学問の褒美として貰った大切なものであった。商人は銭をひったくるように奪うと、忌々しげに背を向けて去っていった。
仲穎は泥まみれの地面に膝をつき、怯えて震える子犬を、壊れ物を扱うかのように優しく両手で抱き上げた。
「もう大丈夫だよ。誰も君をいじめたりはしない。僕たちの家へ行こう」
「兄上、その子犬、僕たちの家で暮らせるのですか?」
董旻が恐る恐る顔を覗かせる。
「ああ。父上もきっと許してくださる。良、水を少し分けておくれ。この子の汚れを拭ってあげたいんだ」
仲穎の言葉に、良は深く一礼した。
「はっ、旦那様」
良は寡黙に水袋を取り出し、仲穎の手元へと注ぐ。仲穎は自らの袖を濡らし、子犬の泥を丁寧に拭ってやった。
後に全土を恐怖のどん底に陥れる魔王の片鱗など、ここには微塵もない。あるのは、行き場のない小さな命を救わずにはいられない、あまりにも純粋で、生真面目な少年の素顔であった。
乾いた涼州の風が、三人の少年と一頭の小さな命を包むように、優しく吹き抜けていった。
【臨洮】
臨洮は漢代の隴西郡に属し、万里の長城の西端の起点とされた西北辺境の都市です。異民族と接する国防の最前線であり、馬などの交易が盛んな中原と西域を繋ぐ要衝として、董卓の強靭な武の原点となりました。




