プロローグ
初平三年(西暦一九二年)四月二十三日―
天の怒りのごとき大雨が、漢王朝の都・長安の未央宮を激しく叩きつけていた。
天を裂く雷鳴が轟くたび、白磁の如き稲光が、宮殿の重厚な御簾と、そこに這いつくばる公卿たちの怯えきった顔を白々と照らし出す。
「逆賊、董卓。偽の詔書に惑わされ、ここに死すべし」
王允の冷徹な声が響いた瞬間、儂は己の過ちに気づいた。
握りしめていた書状――天子の位を譲られると信じて疑わなかった『漢室禅譲の御言』の竹簡が、乾いた音を立てて床に転がる。それは、儂をこの死地へと誘い出すための、あまりに精巧な罠にすぎなかったのだ。
その直後、儂の背後に影が立った。
かつて我が子と呼び、その武勇を誰よりも溺愛した男――呂布である。
風を切り裂き、闇を裂いて突き出された方天画戟の刃が、儂の分厚い胸を容赦なく刺し貫いた。
「がはっ……!」
地獄の底から響くような悪鬼の濁声が、血を噴き出す絶叫となって漏れる。
朱色の衣をさらに深く染め上げ、床に落ちた偽の御言を真っ赤に汚してゆく、凄ましき衝撃と胸を焼く激痛。
しかし、薄れゆく視界の中で、儂の瞳に怨みの色はなかった。
ただ、すべては己の予言通りであったという、奇妙な安堵が心を占めてゆく。
『儂はいつか、最も親しい身内に背後から刺されて終わる』
その凄惨極まる終幕こそが、悪逆を尽くしたこの魔王にとって、誰よりも美しい救済の形であった。
視界が急速に狭まり、暗転していく世界の中心で、一人の歌姫が直立していた。
董卓と呂布の仲を裂いたとされる傾国の美女、貂蝉。
しかし、死の間際にある儂の眼が捉えたのは、彼女の姿ではなかった。
その佇まいの向こう側に、はるか昔、涼州の乾いた大地で魂を誓い合い、そして無残に失ってしまった、亡き婚約者の瑞々しい幻影が重なっていた。
遠い昔に亡くした妻の面影が、なぜか今、最も憎むべき仕掛け人の女のなかに生きている。
そして、己の胸を貫く戟を握りしめる呂布の狂気を孕んだ眼差しの奥には、かつて戦場を共に駆けた、若き日の亡き親友の命の煌めきが見えた。裏切りの刃を突き立てるその姿さえ、かつて互いの背中を預け合って戦った日の熱量と、どこか重なって見えたのだ。
「ああ……お前たち、そこに、いたのか……」
血に濡れた儂の唇から、最後の吐息が漏れる。
すべてを奪い、すべてを焼き尽くした魔王の生が、今、未央宮の冷たい床の上で潰えようとしていた。
その時、一際激しい雷光が、この世のすべてを真っ白に染め上げた。
あまりの光の強さに、長安の雨の音も、公卿たちの歓声も、胸を切り裂く激痛も、すべてが彼方へと消え失せてゆく。
あたたかな、そしてどこか懐かしい静寂が、儂の魂を包み込んだ。
「――起きなさい。また机に齧りついたまま眠って」
耳に届いたのは、未央宮の呪わしい怒号ではない。
それは、まだ砂塵の匂いを知る前の、優しく、どこか気さくな少女の声。
はっと目を開けると、そこは激しい嵐の長安ではなかった。
涼州の、董家の邸の一室。
窓の外には、抜けるような青空と、時折優しく吹き抜ける涼やかな風がある。
己の手を見ると、肉厚で数多の返り血を浴びた魔王のそれではなく、まだ泥遊びの汚れが残る、小さく柔らかな八歳の少年の手であった。
「……あ、なた、は……」
僕の口から出たのは、天下を恐怖で震え上がらせた、あの地獄の底から響くような悪鬼の濁声ではなかった。
それは、鈴の音のように澄んだ、丁寧で物静かな少年の声。
すべての血生臭い未来が始まる前、運命の少女との出会いの日の光が、僕の小さな瞳を優しく照らしていた。




