第二十五回
翌朝、東方の山際から白々と明かりが差し染める頃、臨洮の邸はすでに静かに動き始めていた。
中庭では、良が擦り切れた麻衣の袖を高く捲り上げ、井戸から冷徹な水を汲み上げていた。両親を亡くして以来、邸の雑用や買い出し、煮炊きに至るまですべての家事を一手に担うようになっている。水を張った木桶を両手に抱え、びくともせぬ確かな足取りで厨房へと運ぶその背中は、かつての大号哭を心の奥底に封じ込め、一族の土台たらんとする無言の覚悟に満ちていた。
厨房の火の傍らには、リアの姿があった。
良の持ってきた水を受け取り、大釜に麦を放り込む。その手付きは、数ヶ月前のような覚束なさは消え失せ、良の動きと息を合わせるように無駄がなくなっていた。
だが、リアの真の役目は、いまや台所のみに非ず。
飯の支度を終えるや、リアは厨房の隅の文机へと向かう。そこには、西方の羌族から仕入れた薬草の目録や、小規模な羊毛の取引を記した木簡が整然と積まれていた。洛陽へと旅立ったムルが遺していった行商の知識と、都からの僅かな便りを手繰り寄せ、リアは臨洮の地で小さな交易の差配を始めていた。華美な都で董旻たちが動くための路銀を、そしてこの邸の財力を、己の手で静かに、かつ確実に築き上げんとする鋭き瞳が、木簡の文字を凝視していた。
板の間から、衣擦れと共に重き足音が響く。
すでに役人の制服たる漆黒の玄衣を身に纏った董卓であった。その体躯は、下級武官にして治安維持部隊の頭として、毎日のように荒野の賊を討伐する戦いの中で、岩山の如き頑強さを帯びている。
リアは木簡から顔を上げ、入ってきた阿卓を見るや、その張り詰めた瞳の奥をふっと和らげた。
「起きたのね、阿卓」
文机から立ち上がり、手際よく大椀に麦の飯を盛り付ける。
「ほら、良が朝一番に買い出してきてくれた麦よ。今日も荒野を駆けるのでしょう? たくさん食べておきなさいな」
リアはそう言って、阿卓の前に椀を差し出した。指先に残る小さな擦り傷を隠すこともせず、ただ阿卓の無骨な顔をじっと見つめている。阿卓が椀を受け取り、無言で一口啜るのを見届けると、満足そうに小さく微笑んだ。
「旻たちのことは心配いらないわ。ムルのあの図太さがあれば、都の悪い虫だって蹴散らしているはずよ。私はここで、あなたのためにこの家を、一族の財布をしっかり守ってみせるから」
阿卓は何も言わぬ。だが、己が公の役人として外敵を圧する間に、リアが独自の商いを以て家を支え、良が邸の隅隅を守っていることへの、言葉にならぬ感謝と深い信頼がその眼光に宿っていた。
阿卓の足元では、サミルが尾を床に打ち付け、主の出陣の刻限が近いことを知らせるように、低く一声鳴いた。
「今日の見回りは、西の土壁の村までだ」
阿卓が椀を置き、低く地響きのような声で告げる。
リアはその漆黒の背中を見送りながら、静かに、しかし強く、交易の木簡を握りしめていた。




