第二十四回(西暦164年)
延熹七年(西暦百六十四年)――。
常なる戦塵の只中にありし涼州の荒野にも、一時の静寂が訪れていた。
されど、それは嵐の前の静けさに他ならず、若き主の肩には、亡き師と家族の遺志が目に見えぬ重みとなって伸しかかりていた。
暮れなずむ西方の陽光が、臨洮の邸の古びた泥壁を赤茶色に染め上げていく。
つい数日前まで、出立を控えた若者たちの声と、出入りの行商の荷を解く喧騒に満ちていた中庭は、いまや耳が痛くなるほどの静寂に包まれていた。
仲穎は、馬厩の横の広縁に一人座し、膝の上に横たえた一張の強弓を無言で拭っていた。
師匠・アランより譲り受けし、聖域の強弓「骨喰」。その漆黒の弓身は、数数の戦場を潜り抜けてきた鈍き光を放ち、握り手には亡き師の手擦れの跡が深く刻まれている。21歳となったその肉体は、師匠を失った戦の傷を癒やしつつも、どこか一回り大きく、雄大なる背中へと変貌を遂げつつある。
その眼光は、沈む夕日を映して深く、かつてのごとき青き焦燥は消え失せ、地を這う大河のごとき重みを湛えていた。骨喰の弦を引く己の剛腕を見つめるその佇まいには、師の遺志をこの肉体へ完全に宿さんとする静かなる覚悟が滲んでいた。
「阿卓」
背後から、衣擦れの音と共に静かなる声が響く。
振り返れば、そこにリアが佇んでいた。23歳となった彼女は、亜麻色の髪をいつものように高く結い上げ、手には木製の大きな盆を抱えている。盆の上には、湯気を立てる麦の飯と、野菜を塩のみで煮た簡素な汁椀が並んでいた。戦場で鋭利な白刃を振るうその指先は、いまは不慣れな家事ゆえに小さく擦り剥けて赤くなっている。その佇まいには、最愛の姉を失った悲傷を一切表に出さぬよう、背筋を刃のごとく直立させる強固な意志が宿っていた。
「良も、薪をすべて割り終えて台所に居る。飯にしよう」
仲穎はただ一度、深く頷いた。言葉は交わさずとも、互いの胸中にある喪失の穴の大きさを、その佇まいが物語っている。
邸の奥の板の間へと進めば、そこには良が影のごとく静かに座していた。
仲穎と同い年の青年は、両親を失い、大哭の果てに涙を枯らして以来、一転して鉄石のごとき沈黙を貫いている。武器を持たぬその無骨な両手は、いまや一族のすべての雑事を担うために泥と煤に汚れ、膝の上で硬く握りしめられていた。しかし、仲穎が座るや、その鋭き視線を僅かに和らげ、黙って一礼を捧げた。
三人の足元へ、足音もなく近づく影が一つ。番犬のサミルであった。
董旻が都へ発つ際、リアへと託したその黒き番犬は、主たちの心の痛みを察するがごとく、静かに長い尾を振り、リアの膝元へその大きな頭を寄せた。リアの白い指が、サミルの首筋を優しく、しかし確かな力で撫でていく。
「旻たちは、いまごろどのあたりを歩いているであろうな」
汁を口に含んだ仲穎が、ぽつりと呟いた。
その視線は、遠く東方の、洛陽へと続く果てなき官道の空を見据えている。
「心配いらないわよ、あの二人なら。ムルなんて泥まみれになっても平気な足を持っているし、どこでも勝手に生きていけるわ。旻だって、あの子の行商の手伝いでもさせられて、今ごろこき使わされているんじゃないかしら」
リアはふっと口元を緩め、少し悪戯っぽく笑ってみせた。その言葉には、都という巨大な伏魔殿へ向かった二人を案じつつも、彼らのしぶとさを誰よりも信じている、彼女らしい健気な温かさが混じっていた。
箸を動かす音と、サミルの静かな鼻息だけが、だだっ広い板の間に響く。
かつては叔や厳が豪快に笑い、アランが静かに書を読み、出入りの行商であったムルが籠を背負って訪れては、甲高い田舎言葉で中庭を賑わせていた。そのすべてが削ぎ落された空間で、三人はただ、今ここにある互いの命の温かさだけを、無言のまま胃袋へと収めていく。
飯を終え、良は黙って膳を下げに立ち、リアは灯心の油を足す。
仲穎は立ち上がり、夜風が吹き込む広縁へと歩み出た。見上げる涼州の夜空は、どこまでも高く、冷たい星々がまたたいている。
これが、新しい董一族の、静かで、少しだけ寂しい夜の始まりであった。




