第二十三回
匈奴の別働隊が去り、静まり返った臨洮の董家の邸は、死臭と硝煙の冷たい残り香が漂っていた。
あまりにも無残に、しかし気高く散った師アランの骸。その急速に熱を失いゆく身体にしがみつき、美しき亜麻色の髪を激しく乱しながら、リアは声を失って泣き崩れていた。絶望と、己の言葉が姉を死地へ縛り付けたという残酷なる後悔が、彼女の華奢な肉体を完全に支配し、暗闇の底へと突き落としていた。
実父に続き、師を失い、さらに幼馴染の使用人である良の生まれて初めての号哭をその腕に受け止めた仲穎。彼自身の胸中もまた、兵法書の字面を鵜呑みにした己の未熟さへの、血を吐くような悔恨の念で激しく引き裂かれ、押し潰されそうになっていた。
しかし、仲穎は目の前で魂を失ったように悲しむリアを、どうしても放っておくことはできなかった。己の引き裂かれるような苦悶を胸の奥底へと押し込め、ただひたすらに、静かなる祈りを込めて彼女の傍らに寄り添い続けた。
喉を通らぬと知りながらも、毎日、温かい食事を静かに運び、枕元に置き直す。
「リア、少しでも良い、温かいものを口にしてください」
凍えるように冷たくなった彼女の手を、仲穎は己の無骨で大きな手で黙って握りしめ、ただひたすらに、己の体温を分け与え続けた。言葉はなくとも、その手の温もりだけが、灯火の消えかけた暗闇の中で、リアの心を辛うじてこの世界に繋ぎ止める唯一の錨であった。
幾夜が流れたであろうか。夜の帳が下り、静かな月明かりが部屋の床を白く照らし出す一室。
仲穎の無骨で揺るぎない献身は、ついにリアの内に眠る、商団育ちの強靭なる精神を呼び覚ました。彼女はそっと涙を拭うと、乱れていた美しい亜麻色の髪を、自らの手できつく、毅然と結び直した。仲穎を振り返ったその双眸には、幼き頃の誓いのあの日と変わらぬ、真っ直ぐで強い瞳が甦っていた。
「阿卓…」
世界で唯一人、彼女だけが呼ぶ幼名の響きが、静寂に満ちた部屋に凛と響き渡った。
リアは仲穎の目を真っ直ぐに見つめ返し、静かに、しかし確固たる意志を込めて語りかける。
「私は、ただ守られるだけの頼りなき女ではないわ。商団の荷車に揺られ、多くの国と、泥を啜って生きる市井の民を見て育った。武を振るうことだけが、この過酷な乱世を生き延びる道ではないことも知っている」
彼女の言葉には、過酷な現実を冷徹に受け止めた者だけが持つ、不思議な力強さがあった。姉を失った絶望の底から、彼女は自らの足で立ち上がったのだ。
「あなたがその峻烈なる武を以て外の敵を阻むならば、私はこの知恵と商才を以て董家の足元を固め、あなたの凍えた心を必ず温めてみせる。私たちは、互いの欠けぬところを埋め合うために、ここにいるのよ」
「リア……」
仲穎の胸の奥底で、何かが烈しく震えた。衣の内、彼女から贈られた『緑の組み紐』が、肌を通じて熱を帯びるかのように感じられた。
二人は互いの手を、骨が軋むほどに固く握り締めた。それは、単なる男女の情愛を遥かに超え、この理不尽なる世界を共に支え合って生き抜くという、「対等なる戦友」としての、静かなる血の誓いであった。世界で唯一の錨たる「阿卓」という響きを胸に、若き二人は暗闇のなかで、未来を切り開くための灯火を確かに分かち合っていた。
明くる日、夜明けの冷たい霧が臨洮の街を白く包み込む頃、董家の邸宅の正門前に、旅支度を整えた董旻の姿があった。
次子・董旻は、実父の死に続き、自らの力なきゆえに厳と叔の命を救えなかったという、血の滲むような悔恨を胸に刻んでいた。しかし、兄・仲穎の深い悲しみと、それに一歩も引けを取らぬリアの鮮烈なる自立を静かに見届けたとき、彼の腹は完全に固まった。
(兄上たちがこの地で泥を啜りながら戦うならば、己もまた、己の戦場で爪を研がねばならぬ。法理を、そして制度の頂点を握らねば、大切な者は救えない――)
太守・王奐の中央への栄転という、華やかなる噂が太守府に流れる中、董旻は一族を朝廷の内側から支えるための「真の権力」を掴むべく、都への旅立ちを毅然と果たす決意をしたのである。
董旻は、己の足元にじっと寄り添う精悍なる忠犬サミルの頭を優しく撫で、それからリアの方へと視線を向けた。中央の省庁という法理の戦場へ、愛犬を連れていくことは叶わない。
「リア、サミルを……この子をよろしく。私の代わりに、董家を護る番犬として、ここに残します」
「ええ、任せて。サミルは私が責任を持ってお世話するわ。都の遊女に騙されないようにね」
リアは口元にいたずらっぽくも気風の良い微笑を浮かべ、サミルの首筋を愛おしそうに撫でながら、からかうように語りかけた。その皮肉の効いた、しかし何よりも温かな灯火のような眼差しを受け、董旻が照れくさそうに小さく笑った、まさにその時であった。
「――そうだべ! 都会の悪い虫がつかないように、オラが横でしっかり見張ってるべ!」
正門前に勢いよく駆け込んできたのは、大きな行商の籠を再び背負い直したムルであった。水瓶の中から生還し、衣服を乾かしたばかりの彼女は、涙をボロボロと流しながらも、持ち前の人懐っこい笑顔を浮かべて二人の会話に元気よく割り込んできたのである。
「都までの道中、あちこちの街で商売をしながら、オラも一緒についていくべ! 旻様、道中で食べる干し肉や保存食なら、オラの籠にいっぱい詰まってるべ!」
「ムル……、あなた、行商をしながら洛陽へ行くというのですか?」
驚きに目を見開く董旻に対し、ムルは「そうだべ! 董家の大切なお得意様である旻様に、道中で飢え死にでもされたら、オラが喰いっぱぐれてまうからな!」とちゃっかりとした商売の言い訳を大声でまくし立てた。
しかし、その大きな瞳の奥には、あまりにも深い悲劇に襲われ、傷ついたまま過酷な朝廷へ一人赴こうとする董旻のことが、どうしても心配で放っておけないという、心からの至純なる労わりとお慕いの情が満ちていた。文字の読み書きはできなくとも、彼女なりの一世一代の覚責(覚悟)が、その泥臭い言葉の裏には確かに宿っていた。
「やれやれ……本当に、相変わらず敵いませんね、あなたは」
董旻は、彼女の底抜けのたくましさと、不器用ながらも自分を包み込んでくれる温かな想いに、胸の奥の冷たい塊が静かに解けていくのを感じた。彼は再び優しく微笑み、彼女の並ぶ道中へと歩みを向けた。
「兄上。私は洛陽へ参ります。必ずや、董家の足元を中原の芯から支えてみせます」
「……ああ。気をつけて行くのだ。お前が文字の道を進むならば、私はこの地で、お前の帰る家を必ず守り抜こう」
仲穎は丁寧なる物腰で弟の細き肩に手を置いた。
その傍ら、静かに寄り添う良の双眸は、真っ端(真っ直ぐ)に主である仲穎の背中を見つめていた。
我が親たち(厳と叔)が命を賭して逃がし、師アランがその肉体を盾にして護り抜いた、阿卓の大切な家族とこの家。良の胸中には、阿卓がこれからどのような過酷な戦場へ赴こうとも、変わらず「阿卓ただ一人の忠実なる従者」として生涯付き従い、その背後の死角を無言で消し去り続けるという、絶対の誓いがより強固に固まっていた。
夜明けの冷たい霧が流れる中、都へと向かう董旻と、その横を行商の籠を揺らしてたくましく歩むムルの背中を、仲穎、リア、サミル、そして影の如く主に寄り添う良の面々が見送っていた。
偉大なる父親たちと、アランという巨星を失い、静まり返った董家の邸には、いまやこの者たちが遺されることとなった。
しかし、彼らの背中に、もはやかつての未熟なる迷いはなかった。過酷なる乱世を切り開くための、決して消えない至純なる灯火が、彼らの胸の奥底に、静かに、しかし烈しく灯っていた。




