第二十二回
街の半分が紅蓮の炎と悲鳴に包まれる中、董家の館の周囲でも激しい混迷が渦巻いていた。
「こちらです! 慌てず、地下の備蓄部屋へお逃げくだされ!」
外へと躍り出た良の父親・厳と、その妻である叔の古参夫婦が、必死に声を張り上げて逃げ惑う近所の人々や臨洮の民を先導し始めた。董家の使用人として長年仕えてきた厳と叔は、主が何よりも大切にしていた臨洮の民を一人でも多く救うことこそが、董家に仕える者の矜持であると信じ、老骨に鞭打って街の人々の盾となったのである。
「民の避難は我らにお任せを! 決して振り返ってはなりませぬ!」
厳と叔の必死の先導により、多くの近所の人々が難を逃れていった。しかし、その至純なる責任感の裏、殺到する匈奴の波は無慈悲であった。
水瓶の暗き水のなか、歯を鳴らしながら息を潜めていたムルの耳朶に、そして地下の広き備蓄部屋にいた董旻やリアたちの耳に届いたのは、民を庇って匈奴の凶刃に倒れゆく厳と叔の、壮絶なる討死の声であった。ムルは冷たい水の中で激しく涙を流し、董旻はその声を生涯消えぬ不条理の烙印として耳の奥底に刻み込んだ。
街の半分が紅蓮の炎に包まれる中、兵糧倉へと続く唯一の大路の中央には、西域の峻烈なる武芸者・アランがただ独りで仁王立ちの如く立ちはだかっていた。
吹き荒れる焦熱の風、押し寄せる悍ましくも圧倒的な騎兵の大群。それを前にしてなお、彼女の双眸に宿るのは怯えではなく、西域の修羅の死線を幾度も潜り抜けてきた孤高なる獣の眼光であった。
アランはかつて負った重傷の古傷を抱えながらも、強靭なる精神を以て完全にねじ伏せ、腰の双剣を鋭く引き抜いた。地に向けて斜めに構えられた二条の鋼が、紅蓮の炎を浴びて不気味なまでの武威を放つ。それは、出撃前の愛するアタクへ「私ガ、街、マモル」と誓った、たどたどしき約束を果たすための、命を賭した武人の凄絶なる覚悟であった。
「――来い」
漢語は解さずとも、その圧倒的な殺気の佇まいがすべてを語っていた。食料を求めて怒涛の如く殺到する匈奴の兵に対し、アランはただ一歩も引かぬ絶対の防波堤として、神速の双剣を閃かせた。敵兵の槍を紙一重でいなし、その懐へと鋭く踏み込んでは喉笛を冷徹に斬り伏せていく。己の命の灯火を激しく燃やし尽くしながら、彼女は大路を文字通りの死山へと変え、リアたちの避難の時間を稼ぐため、あるいはこの街の兵糧倉を守り抜くため、血煙の中で一騎当千の烈しき剣舞を踊り続けた。
一方、遠方の山谷にてこれが陽動であるとようやく気づき、狂ったように軍を返した仲穎。しかし、その帰路をも阻まんと、匈奴の防衛部隊が槍を揃え、強固な盾陣を組んで立ち塞がった。一刻を争う退路の遮断。焦燥に駆られる仲穎の前に、地鳴りと共に割り込む影があった。
良であった。良は我が両親に危機が迫っていることなど知る由もない。ただ無言のまま鉄芯の重厚なる大盾を身の前に構えるや、その底無しの怪力のすべてを乗せ、敵の盾陣のド真ん中へと猛然たる突撃を敢行した。
――ドガァァンッ!!
肉と鉄が爆ぜる凄絶な激突音が轟く。良の象徴たる固有の持ち技、敵陣粉砕の豪腕なる突撃。その圧倒的な圧力を正面から浴びた匈奴の兵たちは、防壁ごと木の葉の如く吹き飛び、泥土へ叩きつけられていった。
「良、恩に着る!」
仲穎は吼え、良が開いた一筋の活路を抜け、馬を潰さんばかりに駆って臨洮へと駆け戻った。衣の内、リアから贈られた『緑の組み紐』が引き千切れんばかりに脈打つ胸の動悸の中、彼が目にしたのは、炎上する街のただなか、静まり返った大路の光景であった。
大路には、無数に転がる敵兵の屍。
その文字通りの死山の中心に、直立不動のまま、凄まじき威風を放って佇む影があった。
アランであった。
彼女の両手は、血に濡れた双剣を今なお固く握りしめたまま。背後の兵糧倉を、そして避難したリアたちを護る絶対の障壁として、その気高き仁王立ちの姿勢を微塵も崩していなかった。
驚くべきことに、無数の刃を浴びてなお、その琥珀色の双眸は、押し寄せる匈奴の大軍をいまなお威圧するかのような、凄まじく烈しい熱を帯びて爛々と輝き続けている。
「――師匠……?」
仲穎は馬を飛び降り、縋り付くように駆け寄ってその名を呼んだ。
その声が、戦野の静寂に響いた、まさにその刹那であった。
仲穎の姿をその瞳に映した瞬間、アランの青ざめた唇が、ふっと優しく、穏やかに弧を描いた。愛する弟子が、阿卓が、己との約束を信じて無事に戻ってきたのだという、安堵に満ちた至純の微笑。
直後、さきほどまで燃えるような熱を帯びていたアランの眼から、一切の光が音もなく消え去った。
見開かれた双眸は虚空を見つめ、握られた双剣からは、静かに力が抜けていく。
彼女は、主力が戻るその一瞬まで、ただ己の強靭なる精神の焔だけで肉体の死を繋ぎ止め、大路を塞ぎ続けていたのだ。アタクの帰還を見届けたその刹那、張り詰めていた命の糸は完全に途切れ、アランは目を見開いた姿勢のまま、静かに、気高く息絶えた。
「……あ……、……ああ……」
仲穎の喉から、言葉にならない掠れた声が漏れた。
周囲を見渡せば、匈奴は兵糧のほんの一部を掠奪したに過ぎず、残る大半の食料はすべて無傷のまま遺されていた。仲穎が良と共に敵の想定を遥かに超える神速で駆け戻り、そして何より、アランがこの大路で命に代えて約束を全うし続けたからこそ、臨洮の数万の民の命脈は、確かに死守されていた。
師の命を賭した戦いは、完全なる大勝利を収めていた。しかし、その勝利の代償はあまりにも、あまりにも重すぎた。
その時であった。主人の斜め後ろ、馬を降りた良が、館の惨状のただなかへ、ふらりと力なく歩み寄った。
そこに横たわっていたのは、民を救う最中に無残に引き裂かれた、我が両親――厳と叔の冷たき骸の気配であった。
普段は一切の無駄口を叩かず、感情を面に出したことなど一度としてなかったこの寡黙なる大男が、両親の骸の前に膝を突き、その手をそっと握りしめた。
――次の瞬間、良の喉から地鳴りのような咆哮が爆発した。
「う、あああああああッ!! 父上ッ!! 母上えええええッ!!」
獣の如く、血を吐くような大声での号哭。
街の喧騒を噛み砕くかのように臨洮の空へと響き渡る良の涙と叫びは、彼がどれほど深く両親を愛していたか、親への情愛のすべてを物語っていた。良は両親の胸に顔を埋め、子供のように声を上げて、ただ、激しく泣き続ける。
避難を終えて隠れがから駆け戻ったリアも、董旻も、アランの仁王立ちの死と、良の今までに聞いたこともない絶叫の前に、ただ言葉を失って立ち尽くした。
リアの確かき眼からは涙が止めどなく溢れ、その唇は激しく震えていた。
「……ごめんなさい、阿卓……わたしの言葉が、姉さんを……」
阿卓を安心させたいという一心から紡いだ己の言葉、それに応じてアランが交わしたあの約束が、姉をこの死地へと縛り付け、その命を奪ってしまった。リアの魂を激しく苛んでいた。董旻もまた、どれほど智恵を絞ろうとも、力がなければ何も変えられなかったという非情な現実の前に、血の滲むような悔恨を胸に刻んでいた。
激しく泣き叫ぶ良の背中に、仲穎は歩み寄り、その大きな肩をそっと抱きしめた。友の、あるいは最強の盾たる男の、生涯で初めて見せる大粒の涙と震えが、仲穎の手のひらに痛いほどに伝わってくる。
良の号哭と重なり合うように、仲穎の慟哭が、夜の臨洮の空へと狂おしく響き渡った。
(己の直感を恐れ、兵の安全を重視するあまり、兵法書の字面を荒縄の如く縋りついた我が未熟。用兵のなんたるかをうわべだけで動かし、敵の老獪なる智略にいいように裏をかかれた、我が不甲斐なさ。これほどまでに頭でっかちの未熟者が、一軍の長などと、よくも驕り昂ぶっていたものだ。亡き父の遺言を全うせんとするこの我が至らなさが、大切な師を、厳と叔の命を悉く圧殺したのだ――)
大人の欺瞞に対する割り切れぬ重き澱を胸に沈めながらも、父の遺言を、先人の教科書を、そして愛する者たちの至純なる約束をどこまでも愚直に全うせんとしてきた若き仲穎の精神の琴線が、この日、烈しく音を立てて掻き鳴らされた。良の両親の、あるいはアランの冷たき骸を前にして、ただ二人の若者の狂おしき叫びだけが、黒煙の立ち上る臨洮の夜にいつまでも、いつまでも響き渡っていた。
その地獄の如き叫びが夜空を震わせるなか、静まり返った館の台所の隅から、ガタ、と重き音が響いた。
巨大な水瓶の蓋が内から押し上げられ、這い出てきたのは、全身から冷たい水を滝の如く滴らせ、びしょ濡れになったムルの姿であった。
彼女は、大軍の蹂躙のすべてを、厳と叔の壮絶なる最期を、水瓶の暗闇の中から震えながら見届けていたのだ。ムルは濡れそぼった衣服を重そうに引きずりながら、外の大路へとふらふらと歩み出た。髪から滴る水滴が泥土を叩くなか、彼女がその瞳に映したのは、かつて自分が人懐っこい笑顔で走り回っていた、あの温かく賑やかだったはずの、黒煙の立ち上る焦土と化した臨洮の街の無残なる姿であった。少女はただ声を失い、溢れ出る涙を冷たい水滴と共に流しながら、理不尽なる不条理に引き裂かれた荒れ果てた街を、呆然と眺め立ち尽くしていた。




