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第二十一回

国境の荒野にて、きょう族の猛将ガルとの間に結ばれた苛烈かれつなる再戦の誓い。その初陣の鮮烈なる軍功は太守府を大いに沸かせ、間もなく、都の中枢たる洛陽からの親書を携えた使者が、頻繁に太守府へと出入りするようになった。それは一見、王奐おうかんのこれまでの辺境統治の功績が中央に認められたかのような、華やかな栄転の予兆を帯びていた。


ある夜、王奐は実の息子のように愛する仲穎ちゅうえい董旻とうびんの兄弟を奥書院へと呼び寄せ、書簡を前に穏やかな微笑みを浮かべた。


「いよいよ、都へ呼び戻されるやもしれぬ。洛陽にて再び、お前たちと共に歩む日が来よう」


中央省庁への出仕を控えた董旻は、己の目指す「知の道」の先で再び義父を支えられると、純粋に歓喜した。最高に生真面目なる仲穎もまた、至純なる義侠ぎきょうの心から、第二の父親の栄達を心から祝福した。誰もが未来への希望を抱く、温かき夜であった。


――しかし、この歓喜の裏で、国境の崩壊はより老獪ろうかいにして冷酷なる陰謀の網を広げていた。


北方に盤踞ばんきょする宿敵、匈奴きょうどの連隊。彼らは異民族の部族同士が張り巡らせたひそやかな情報網を介し、先日の初陣における漢の新たな武官――董仲穎の戦い方のすべてを、すでに冷徹に調べ上げていた。


『新任の隊長は馬上弓術の化物なれど、大軍を率いる重責のあまり、兵法書の字面を鵜呑みにする頭でっかちの若輩に過ぎぬ』


匈奴の指揮官たちは、仲穎の持つ「生真面目すぎる実直さ」を完全なる弱点と見抜き、そこを突くべく新たなる軍略を仕掛けたのである。


明くる週、国境のさらに遠方、兵法書において「一国を守るための絶対の要衝」とされる山谷に向けて、匈奴の大軍が大規模な侵攻を開始したとの急報がもたらされた。


軍を預かる仲穎は、深く懊悩おうのうした。先の初陣における手痛き失敗を経て、彼は兵法書の記述のみに頼る危うさを重々身に染みて知っていた。教科書通りの陣形が実戦の泥沼でいかに通用せぬか、身を以て学んでいたのである。


しかし、国から預かった多くの兵の命を預かる身として、国境の要衝を看過できぬこともまた冷厳なる事実であった。なにより、出撃によって臨洮の街の防備が薄くなることの危険を、仲穎は誰よりも恐れていた。


(教科書通りの正論にすがるわけにはいかぬ。されど、要衝を捨てては民が死ぬ。そして、街を完全にもぬけの殻にすることも絶対に許されぬ――)


この張り裂けそうなジレンマのなか、出撃の直前、仲穎は衣の内なる『緑の組み紐』に触れながら、誰よりも信頼を寄せ、情愛を交わすリアと、その傍らに佇むアランへこの胸中を静かに相談した。


仲穎の生真面目なる苦悩をその確かき眼で見つめていたリアが、その手をそっと阿卓の衣服に添え、深い親愛を込めて語りかける。


「阿卓、恐れることはないわ。この街には、あなたがこれまで命がけで育ててきた頼もしい自警団の仲間たちがいるもの」


さらにその言葉を継ぐように、それまで静かに聞いていた師・アランが一歩前へ歩み出た。アランは弟子の怯えを払拭ふっしょくせんとするように、その鋭くも深い情愛を湛えた琥珀色の双眸で仲穎を真っ直ぐに見据え、たどたどしき、しかし凛とした片言の漢語を以て彼を送り出したのである。


「……アタク。心配、ナイ。万が一、敵、クル、ナラ……私ガ、街、守る。私ガ、盾ニ、ナル、ヨ」


リアの慈しむような優しい声と、師の力強き言葉は、仲穎の背中を強く押し、張り詰めていた魂を深く安堵させた。仲穎は彼女たちの言葉を絶対のものと信じ、万全ならぬ古傷を抱えるアランを気遣いながらも、必要最低限の守備兵を臨洮に残し、残る太守府の全軍を率いて要衝へと出撃したのである。それは、彼らが最初の失敗から学び、互いの深い信頼の果てに下した、最善の決断であった。


しかし、匈奴の老獪なる軍師たちは、仲穎が「失敗から学び、慎重に動くこと」さえも、その生真面目な気性からすべてを読み切っていた。必要最低限の守備兵だけが残された臨洮の街。それこそが、主力を遠方の山谷へと完璧に引き寄せ、彼らの本命を完遂せしめるための、より大きな罠の結び目であった。


主力を率いた仲穎の全軍が、国境の死地に釘付けにされているその一瞬のすきを突き、本隊を迂回した匈奴の別働隊が、防備の極限まで削られた臨洮の街へと、一気呵成に急襲を仕掛けようとしていた。

その未曾有の不条理の足音を、誰よりも早く察知した者がいた。行商娘のムルであった。


彼女はその日、街から少し離れた街道の先の野山で、行商の荷を運んでいた。その時、地平線を揺るがして電光石火の速さで進軍してくる、匈奴のおぞましくも圧倒的な騎兵の大群を偶然にも目撃してしまったのである。驚愕に目を見開いた彼女は、行商人の野生の勘で、彼らの冷酷なる刃がもぬけの殻となった臨洮の街へと向けられていることを直感した。


ムルは重い荷籠をその場に放り出すと、汗と泥にまみれながら、臨洮の街へ向けて全速力で奔走した。そして街の門へと辿り着き、中へ滑り込むなり、喉を引き裂かんばかりの声を張り上げて大路を駆け抜けたのである。


「強襲だべーッ!! 敵が来るべー、みんな逃げてけろ!!」


彼女のなりふり構わぬ決死の叫びは、静まり返っていた街に凄まじい警鐘となって響き渡った。ムルはそのまま転びそうになりながら大路を走り抜け、息も絶え絶えに董家の館へと飛び込んだ。


「旻様! 旻様あ! 大変だべ、匈奴のすごい数の馬が、こっちさ向かって走ってきてるべ!!」


衣服を裂き、泥まみれになって転がり込んできたムルのその言葉を受け、董旻は激しく目を見開いた。これまで読み込んできた辺境の気候記録と古の竹簡の知識から、彼の脳裏で瞬時に噛み合う。


「――狙いは、太守府の兵糧倉へいろうぐらだ!」


過酷なる寒冷の冬を前にした匈奴の目的が、無差別な殺戮などではなく、一族の飢えを凌ぐための「備蓄食料の強奪」であると、ムルの決死の凶報から董旻は瞬時に看破したのである。


董旻はすぐさま太守・王奐のもとへと走り、息を切らせてその知見を必死に注進した。一介の書生にすぎぬ董旻の報告であったが、王奐はそれを看過しなかった。老太守は即座に事態の危急を悟るや、直ちに太守府に残された私兵や集められる限りの戦力を必死にかき集め、兵糧倉の防衛へと当たらせるべく、軍長として毅然たる迅速な対応をとったのである。


しかし、匈奴の別働隊が放つ怒涛の如き馬蹄の進軍速度は、王奐の懸命なる差配をも嘲笑うかのように早かった。地平線を埋め尽くす異民族の悍ましき騎兵の波が現場へ到着するよりも前に、街は一瞬にして悲鳴と紅蓮ぐれんの炎に包まれてしまった。


権限なき身として王太守へ注進し、太守もまた最善の手を尽くした。それでもなお、大勢を変えられなかったという非情なる不条理の中、董旻にできるのは、ただ己の細き腕を以て、兄の守らんとした「董卓一家」を、安全な場所へと避難させることだけであった。


「リア、しゅくのおばさんを連れて! 早く地下の隠れ処へ!」


董旻は衣服を泥に染め、襲来する騎兵の波の恐怖に歯を鳴らしながらも、必死にリアの手を引き、良の母親である叔たちを館の奥へと走らせた。その足元では、忠犬サミルが敵の殺気に牙を剥き、主人たちを先導するように吠え猛っている。董旻、リア、叔の一行は、サミルを伴って、冬に備えて多くの野菜や酒を蓄えている館の頑強なる地下の備蓄部屋へと辛うじて退避した。


しかし、その背後、急激に狭まる敵の包囲のなか、ムルは地下への退路を完全に見失ってしまっていた。


地鳴りのような怒号が館を揺らし、匈奴の刃が邸内へと雪崩れ込んでくる絶体絶命の刹那、彼女は持ち前の要領の良さと野生の勘を以て、台所の隅に置かれた巨大な水瓶みずがめへと、とっさにその身体をザブンと深く滑り込ませた。冷たい水の中に身を沈め、僅かな隙間から息を潜めてやり過ごす。それが、この過酷な辺境で泥にまみれて生きてきた、彼女なりの命がけの隠れがであった。

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