第十六回
涼州の峻烈なる風が吹き抜ける臨洮の街にあって、董家の邸には、いつも絶えることのない温かな灯火が灯っていた。
董家の館における日々の蓄えや家財の買い出しは、本来、リアと良の二人が担う大切なお役目であった。しかしその日は、日頃は太守府の公務や学問に追われる仲穎と董旻の兄弟にとって、久方ぶりの穏やかなる休日であった。
「よし、今日は久しぶりに、みんなで一緒に買い出しへ出かけよう」
仲穎のその一言から、一族はにぎやかに連れ立って、快晴の陽光が降り注ぐ臨洮の市場へと繰り出したのである。普段の仕事に主たちが加わったことで、リアの足取りも心なしか軽く、良もまた大きな荷車をその自慢の怪力で軽々と引きながら、一行は弾むような明るい笑い声に包めて大路を歩んでいた。
市場の活気溢れる雑踏に足を踏み入れたその時、人混みの向こうから、聞き覚えのある陽気で弾んだ声が響いてきた。
「あ、旻様だべ! 久しぶりだのう!」
董旻の姿を見つけるや否や、荷籠を背負って元気に駆け寄ってきたのは、羌族の血を引く行商娘のムルであった。彼女は泥にまみれながらも、その持ち前の要領の良さと人懐っこさ、太陽のように底抜けの明るさで、必死に辺境の行商を営んでいる少女であった。
かつてこの市場で老獪な商人に騙され、全財産を失いかけた窮地にあった彼女を、竹簡の記録と鮮やかな機転を以て救い出したのが、他ならぬ董旻であった。それ以来、ムルは己の救ってくれたこの若き書生への深い恩義を感じると同時に、この聡明なる主のいる董家と取引を繋いでおけば間違いなく喰いっぱぐれがないという、彼女なりの商売の鼻を抜け目なく利かせて、御用聞きとして董家の邸へ熱心に出入りするようになっていたのである。
「今日も熱心に行商に励んでいるようですね」
董旻が小さく微笑み返すと、ムルは嬉しそうに目を細め、再び元気よく雑踏の中へと仕事に戻っていった。
その直後、市場の喧騒の片隅で、今度は漢人の傲慢なる役人や群衆の怒号が響く一角があった。
人だかりの中心で、襤褸を纏った一人の見慣れぬ幼き少年が、泥土に膝を突き、役人たちから理不尽なる咎めを受けて立ち尽くしていた。少年は困窮の極みにあり、その小さな肩を恐怖で小刻みに震わせている。
仲穎は、その少年のただならぬ苦境をどうしても放っておくことはできなかった。
「何をされているのですか。その少年が何をしたというのです」
仲穎は役人たちの前に毅然として立ち塞がり、最高に生真面目にして丁寧なる物腰を以て、役人の無道を理詰めで静かに諭し始めた。さらに、少年の代わりに自らの懐から僅かな路銀を差し出し、その因業なる揉め事を一点の濁りもなく、至純なる優しさを以て丸く収めてみせたのである。
役人たちが忌々しげに去ったのち、仲穎は泥を払い、少年に優しく手を差し伸べた。
「怪我はありませんか。私は董仲穎。お腹が空いているなら、我が家へ来るとよい」
少年は、漢人の武官でありながら己を対等に扱い、無償の救いを差し伸べてくれたこの大男を、驚愕と、涙の滲む震えるような畏敬の念で見つめ返した。
「……オラ、寿成。この御恩、生涯、決して忘れぬ」
気弱な声音で、しかし必死に己の幼名を告げた少年の胸には、仲穎という男の至純なる義侠の姿が、深く、烈しく刻み込まれた。のちにたくましく成長し、馬騰と名を変えて涼州の荒野を揺るがす英傑となる少年との、これが誰も知らぬ、砂塵のなかの小さな出会いであった。
仲穎が寿成と心を通わせ、董旻がその様子を静かに見守っているその傍ら。リアは一人、中原の栄華から見捨てられた西域の行商人が怪しげな骨董を並べる、薄暗い露店の前に佇んでいた。
彼女の確かき眼が捉えたのは、埃に塗れた木箱の奥に眠る、一つの面であった。
それは、鈍き鉄の肌を持ち、見る者を心の底から慄然とさせるような、この上なく禍々(まがまが)しい相好を浮かべた異形の仮面であった。なぜそれが臨洮の辺境に流れてついたのか、誰が作ったのかすら分からぬ、不気味な気配。
だが、リアはその面を店先でひょいと手に取ると、自らの顔の前にちょっと当て、悪戯っぽく微笑んでみせた。
「ふふ、これ、変なの」
少女らしい無邪気な声を上げ、その奇妙な相好をからかうように楽しんでいたリアであったが、ひとたび面を箱へと戻したのちも、その面が放つどこか怪しくも不思議な魅力が、どうしてか頭から離れなくなってしまった。どうにも気になって仕方がなくなった彼女は、阿卓たちに気づかれぬよう、自らの懐から素早く銀銭を差し出すと、その面をこっそりと買い受け、衣の奥深くへと静かに隠し持った。
買い出しを終えて帰邸した董家の館には、再び賑やかな活気が戻っていた。
館の勝手口の重き扉を叩き、新鮮な風を運び込んできたのは、先ほど市場で出会ったムルであった。
彼女は辺境の地で生まれ育ったがゆえに、その口調には、土地の泥臭さと純朴さがそのまま滲んでいた。ムルは愛嬌のある物腰で、厳や叔の手伝いをしながら、邸内へと御用聞きの荷を運び入れる。
「旻様、これ、新しい竹簡の紐だべ。使ってけろ」
そう言って一族の恩義への品を差し出したかと思えば、ムルはすぐさま、その背負った荷籠から別の包みをちゃっかりと取り出して見せた。
「――それと、こっちは別件だべ! 都の方から仕入れた、最高に文字が書きやすい新しい筆と、叔のおば様が夕餉に喜ぶ新鮮な山菜が入荷したんだ。旻様、まとめて安くしとくから、買ってけろ!」
「やれやれ、相変わらず抜け目がありませんね、あなたは」
文字の道を志す董旻は、彼女のたくましき商売の鼻と、その飾り気のない明るさに苦笑しながらも、どこか張り詰めていた心を緩め、懐から小銭を出してその品を買い取ってやった。
二人の間には、同じ董家の屋根の下で、互いの魂を寄せ合う静かなる、しかし微笑ましき関わり合いが音もなく始まっていた。
庭を眺めれば、寡黙なる良が、主人のために黙々と得物を磨き、厳と叔の夫婦が愛おしそうに我が子の背中を見守りながら、家中の力仕事を共にこなしている。その足元では、まだ幼さの残る子犬のサミルが、董旻の影を追って元気に駆け回っていた。
「阿卓、見て。今日の夕餉は叔のおば様が腕を振るってくれたのよ」
リアが美しい亜麻色の髪を揺らしながら、愛おしそうにアタクの顔を覗き込む。
卓の頭に座る父・君雅の顔色は、ここ数月、少しずつ病に蝕まれ、床に伏せがちとなる日が増えていた。日を追うごとに細くなる父の呼吸の影を前に、一族の胸には無言の焦燥と労りの情が静かに満ちていた。しかし、君雅は集う若き者たちの姿を穏やかに見つめ、その傍らでは、かつて負った重傷の古傷を抱えるアランが、さも当然のこととして彼を世話しながら、片言の漢語で言葉を交わしていた。
遠からぬうちに訪れるであろう決定的な別れの予兆。だからこそ、ここに集う者たちはそれぞれの役割を以て、互いの欠けぬところを埋め合うように董家を支え合っていた。のちに訪れる過酷なる時代の破局など微塵も感じさせぬ、臨洮の董家が持っていた、最後にして最も温かき家庭内の団欒のひとときであった。




