第十五回
太守館の一幕からさらに数月が流れ、涼州の大地には白々とした冬の足音が近づいていた。
あの日、太守府で聞いた大人の事情の割り切れなさは、14歳の仲穎の胸の奥底に、静かな重みとして残り続けていた。しかし、最高に生真面目な少年は、その割り切れぬ想いをすべて、名弓『骨喰』を引く過酷な鍛錬の熱量へと変えて打ち込んでいた。
中庭での毎朝の鍛錬は、もはやリアの通訳を介することはなかった。リアは良とともに、董家の膨大な家政や物産の取引に立ち働きながら、中庭で泥にまみれる仲穎の姿を静かに見守るに留めていた。
「アタク、腰、浮く。馬、乗る、手、離す。心、平ら、右、左、同じ」
師匠アランが放つ、低く厳格な片言の漢語。仲穎はその短い言葉の奥にある達人の身体の動きを、自らの鋭い武才だけを頼りにして、必死にその肉体へと吸い上げていった。
馬上を模した激しく動く木馬の上で、手綱を握らずに名弓『骨喰』を右の手から左の手へ、あるいは左の手から右の手へと瞬時に持ち替え、全方位の標的を射抜く。手の皮が剥け、全身が汗にまみれようとも、仲穎はただ黙々とその神技「左右馳射」を自らのものにしていった。
その過酷な武の鍛錬の傍らで、12歳となった実弟の董旻は、兄の背中を見つめながら、異なる決意をその胸に固めつつあった。
董旻は、人の内面を鋭く察する瑞々しい感受性と地頭の良さを持っていた。だからこそ、あの刺客が遺した白紗の裏地、あるいは中央の権力者との諍いを恐れた太守の保身から、力だけで防げる理不尽には限界があるという冷徹な現実に気づいたのだ。
「兄上、僕は文官として役人の道を進むことを、深く決意いたしました」
ある夜、董旻は中庭で名弓『骨喰』の弦を検分する仲穎の前に進み、自らの意志を物静かに、しかし強固な口調で告げた。足元では、精悍な成犬サミルが、主の決意に寄り添うようにじっと佇んでいる。
「どれほど武芸を磨こうとも、中央の役人が放つ見えざる凶刃や大人の陰謀の網は、兄上の真っ直ぐな正義をいつか絡め取ってしまうに違いありません。僕は、朝廷の法理と知識を学び、知恵をもって兄上の背中を、そしてこの董家を裏から支える柱となります。明日からは父上の書物をすべて読み解くつもりです」
仲穎は、弟の放った端正で聡明な決意を静かに聞き届け、その生真面目な瞳を細めて優しく微笑んだ。
「素晴らしい決意だよ、旻。お前が朝廷の内から助けてくれるなら、僕は外の戦場でいかなる理不尽が立ちはだかろうとも、迷いなく弓を引くことができる。僕たちの信じる正義を、共に異なる道から果たそう」
良が寡黙に水を運び、兄弟の強い絆を見守る中、董旻のなかで文官への確かな路が定まった。
兄弟がそれぞれの道で董家を支え合う固い誓いを交わした翌日からも、国境の峻烈なる現実は彼らに息つく暇さえ与えなかった。
再び大規模な悪党の群れが集落を急襲したとの報を受け、仲穎は自警団の少数部隊を率いる若き隊長として、馬を駆って戦場へと突入した。今回は師匠アランの同行はなく、己が身一つでこれまでの過酷な鍛錬の成果を示すべき試練の場であった。
「悪党どもめ、民をこれ以上痛めつけるのはやめるのだ!」
集落へ突入した仲穎の姿は、初陣の時とは完全に別人のそれであった。激しく駆ける馬上で、彼は手綱から完全に両手を離し、漆黒の名弓『骨喰』を右の手で一気に引き絞った。
――ヒュンッ!
放たれた最初の一矢は、凄まじい風切り音とともに一筋の閃光となり、民に刃を突きつけていた野盗の腕を正確無比に深く射抜いた。
悪党どもがその凄まじい威力に恐れをなし、左右の岩陰へと不規則に散開した、まさにその刹那。仲穎の天性の武才が、完全にその真価を開花させる。
――ヒュンッ! ヒュンッ!
間髪入れず、仲穎は名弓『骨喰』を瞬時に左の手へと持ち替えた。流れるような滑らかな動作のまま、今度は左の手で寸分違わぬ威力の二の矢、三の矢を間断なく叩き込む。右背後から不意を突いて迫っていた別の一団の武器だけを、狙い澄ましたかのように一瞬でことごとく射落とした。
左右どちらの手でも等しく矢を放ち、激しく動く馬上の全方位へ隙なく正義の矢を降らせる、完璧なる左右馳射の成就。悪党どもは、一介の少年にすぎぬはずの若き隊長が放つ、その人間離れした神技の前に戦意を完全に喪失し、一人として民の命を奪うことも叶わぬまま、這々の体で蜘蛛の子を散らすように退散していった。
集落の窮地を救い、日々の過酷な任務の一つを全うした仲穎。
その凱旋を邸の門前で迎えたリアは、砂塵の向こうから馬を駆って戻る若き漢の姿を、ただ交易の「耳目」としてではなく、一人の女性としての深い眼差しで見つめていた。
あの日、廊下の片隅で手渡した緑の組み紐を、今も衣の内側で肌身離さず守りながら、誰よりも真っ直ぐに、泥臭く他者を護るために己を鍛え上げた少年。リアの胸の奥底に、時を越えて色褪せることのない、不滅の愛の情念が確かな形となって結実した瞬間であった。
この目覚ましい活躍は、すぐに隴西太守・王奐の知るところとなった。
自警団の少数部隊を率いる隊長として、圧倒的な武力をもって瞬く間に野盗の群れを圧倒した若き仲穎の才覚は、太守にとっても自らの治世を誇るに足る見事な戦果であった。そして、漆黒の名弓『骨喰』を左右の馬上から自在に操る若き隊長の噂は、すでにこの臨洮の壁を越え、涼州の荒ぶる大地に割拠する諸方の豪族たちの間にも、恐るべき新星の到来として静かに轟き始めていた。
父・董君雅の強い勧めと、王奐の強い推挙により、14歳を超えたばかりの若き仲穎は、一介の自警団から、正式に朝廷の秩序を守る「武官(府吏)」としての第一歩を踏み出すこととなった。




