第十四回
太守館を狙った刺客の一団を取り逃がした翌朝、臨洮の町は、何事もなかったかのように穏やかな初夏の陽光に包まれていた。
仲穎は、実父の董君雅の伴を執り、太守府の奥の間へと参内していた。昨夜の不穏な一幕――鉄帯で縛られた重々しいつづら箱をいくつも積んだ荷車が、訓練を重ねた刺客たちによって館から音もなく引き出されていったあの奇怪な顛末を、正しく公に報告するためである。
「太守殿、昨夜、我が不肖の息子、仲穎が巡察の折に、貴殿の館から重々しい荷車を強奪して逃げゆく、黒装束の一団を見解めました。幸いにして太守殿の御身は無事でありましたが、悪党どもは洛陽の宮廷でしか用いられぬ稀少な白紗を身に纏うなど、国境の野盗とは毛色の異なる不気味な気配を残しております」
董君雅が実直な公人として、理路整然と、しかし深い危機感を滲ませて報告を言上する。
その報告を、上座の長椅子に腰掛け、静かに盃を傾けながら聞いていたのは、隴西太守・王奐であった。高潔な文官であり、仲穎にとっては正義と王朝の秩序の象徴たる無二の知己。
王奐は、君雅の言葉を静かに聞きながら髭を撫で、ふっと微かな息を漏らした。その表情は、夜襲から辛うじて難を逃れた者としての安堵のように見えたが、同時に、どこか奇妙な冷徹さを湛えているようでもあった。
「うむ……。君雅、それに仲穎よ。国境の治安を預かる者として、昨夜の骨折り、真に見事であった。我が身を案じてくれた至誠の心、深く感謝する」
王奐は、最高に生真面目な瞳で己を見つめる仲穎の頭を優しく撫で、その柔和な笑みを浮かべたまま、言葉を続けた。
「なれど、都の白紗が残されていたからとて、それを直ちに洛陽の陰謀と結びつけるのは、いささか早計というもの。西域の商人が密かに都の布を仕入れ、野盗の首領がそれを着ていた可能性も捨てきれん。不確かな噂で朝廷を疑えば、かえって我が隴西が不義の疑いをかけられ、民を更なる混乱に陥れることになろう。昨夜の荷車の件は、国境の質の悪い浮浪の徒による、一時の掠め取りとして穏便に処理しておくのが賢明というものだ」
太守の声はどこまでも穏やかであったが、大規模な荷車の強奪という重大な事態に対し、あまりにも事件を小さく扱い、早く幕を引こうとするその物言いは、奇妙な不自然さを漂わせていた。
「……ですが、太守殿。あの者たちの身のこなしは、あまりにも訓練されており、通常の野盗とは……」
納得のいかぬ仲穎が、物静かな丁寧さの中にも、職務としての真摯さをもって反論の言葉を口にしようとした、その刹那。
「仲穎、下がりなさい。太守殿の深き御配慮を前にして、口を挟むのは不調法である」
父・君雅の厳格な一喝が、少年の言葉を遮った。
王奐がかつて都の役人であり、いずれ中央へ還る望みを持っていることを知る君雅は、太守のこの不自然な歯切れの悪さから、その心中を瞬時に深読みしていた。
(ああ、なるほど。太守殿は洛陽の品が見つかったことで、中央の権力者たちとの間に余計な諍いが起きるのを恐れておいでなのだ。ここで都の不興を買ってしまえば、ご自身の都への転属の道が完全に遠のいてしまう。だからこそ、国境の野盗の仕業として穏便に闇に葬り、平穏を保とうとされているのだな)
父はそう深く得心し、太守の保身と大人の事情を深く察したからこそ、これ以上の追及は無益であると判断し、場を収めようとしたのだ。長年の上下の礼節と公の秩序を重んじるがゆえの、実直な見落としであった。
「……はっ。差し出口を叩き、申し訳ありませんでした、太守殿」
仲穎は静かに頭を下げ、座を退いた。
しかし、大人の事情で納得した父とは異なり、少年の澄んだ胸の奥には、王奐の放った言葉の軽さと、事件を強引にはぐらかそうとしたあの座の奇妙な歪みが、どうしても拭いきれぬ重き澱となって残り続けた。
自分が命をかけて、そして師匠アランに頭を下げてまで磨こうとした「正義の武芸」は、一体何のためにあるのか。信じて疑わなかった正義の象徴の向こう側で、一体何が蠢いているのか。
この時の仲穎には、その違和感の正体を暴く術はまだなかったが、この美しい楽園のすぐ裏側で、大人の守る公の法理が静かに濁り始めているという冷え冷えとした予感だけが、彼の生真面目な心を少しずつ揺るがし始めていた。




