第39話 吸血鬼ヴェルティアの秘密――千年を生きる女が恐れるもの
「世界と世界の境界を、自由に開閉すること……?」
管理局の応接室。
蓮は、ヴェルティアの言葉を繰り返した。
「それが、黒い取引網の本当の目的なんですか?」
「ええ。ただし、私にもすべてが分かっているわけではありませんわ」
いつもの甘い笑顔はなかった。
ヴェルティアは窓辺に立ち、黒曜港を見下ろしていた。
「この港には、何百年も前から奇妙な記録が残されています。ある日突然、存在しなかった商品が市場に現れる。誰も知らない言語を話す商人がやって来る。そして、何の前触れもなく姿を消す」
「異世界から来た人たち……?」
蓮が尋ねると、ヴェルティアはうなずいた。
「おそらく。ですが、問題はそこではありません」
彼女は振り返った。
「境界を開くこと自体は、必ずしも悪いことではありませんわ。異なる世界の人々が出会い、必要なものを交換し、互いに助け合う。それは素晴らしいことです」
蓮は、思わず顔を上げた。
それは、自分がずっと続けてきた商売と同じだった。
日本の商品を異世界へ届ける。
異世界の品物を日本へ持ち帰る。
物を売るだけではなく、世界の違う人たちをつなぐ。
「でも……」
ヴェルティアの声が低くなる。
「境界を無理やり開けば、世界そのものに負担がかかります。魔力の流れが乱れ、空間に亀裂が生じる。最悪の場合、二つの世界が互いを侵食してしまう」
ミリアが息をのんだ。
「だから、境界の安定が必要なんですね」
「その通りですわ」
蓮はスマートフォンを取り出した。
【境界安定率:測定不能】
【境界干渉能力:確認】
【境界切断能力:確認】
【警告:過剰使用は危険】
自分の能力が、なぜ目覚めたのか。
なぜ、黒い取引網が自分を狙うのか。
答えはまだ見えない。
ただ一つ分かったことがある。
自分の商売は、思っていた以上に大きな問題とつながっている。
「ヴェルティアさん」
「はい、蓮様」
「あなたは、どうしてそこまで詳しいんですか?」
その質問に、ヴェルティアは黙った。
ほんの数秒。
けれど、長い時間を生きてきた彼女にとって、その沈黙には何か特別な意味があるように見えた。
「……私は、昔、一度だけ境界の崩壊を見たことがありますの」
その声は、いつもの艶やかなものではなかった。
「そして、そのとき……大切な人を失いました」
部屋が静まり返った。
蓮は、何も言えなかった。
◇
「それは、いつのことなんですか?」
しばらくして、蓮が尋ねた。
ヴェルティアは遠くを見るように目を細めた。
「今から、およそ八百年前ですわ」
「八百年!?」
蓮が思わず叫んだ。
「ちょっと待ってください! あなた、いったい何歳なんですか!?」
「女性に年齢を尋ねるのは失礼ですわ」
「いや、八百年前って言ったよね!?」
「正確には、それより少し前から生きておりますけれど」
「少しってどれくらい!?」
「秘密ですわ」
「そこは教えてくれないのかよ!」
ガルドが腕を組んだ。
「吸血鬼というのは、長生きするものなのか?」
「個体差はありますわ。ですが、私は特別ですの」
ヴェルティアは、さらりと答えた。
「戦闘能力だけでなく、魔力の総量、再生能力、身体能力も、一般的な吸血鬼とは比較になりませんわ」
「それで、あの強さか……」
蓮は先ほどの戦闘を思い出した。
敵の短剣を指で止める。
魔法を反転させる。
体術だけで相手を床に叩きつける。
しかも、傷を受けても一瞬で再生する。
あれだけの力を持ちながら、本人は余裕そのものだった。
「ヴェルティアさんって、もしかして、この世界でも相当有名なんですか?」
「ええ。黒曜港では、私に逆らう者は少ないですわ」
「やっぱり……」
「ただし、怖がられているだけではありませんのよ?」
「というと?」
ヴェルティアは、にっこり笑った。
「私の商会と取引をすれば、契約は必ず守られます。約束を破る商人には厳しく対処しますけれど、正しく商売をする方には惜しみなく支援しますわ」
ガルドが感心したようにうなずいた。
「なるほど。力があるだけじゃなく、商業組織としても信用を築いているわけか」
「その通りですわ」
ヴェルティアは胸を張った。
そして、蓮を見つめる。
「ですから、蓮様。私と一緒に商会を経営する未来など、いかがでしょう?」
「話が飛んだ!」
「私の財産も権限も、すべてとは申しませんが、かなり自由に使えますわ」
「かなりってどれくらい!?」
「黒曜港の倉庫を十棟ほど。それから、港の外にある交易都市にも支店がございます」
「十棟!?」
ガルドの目が輝いた。
「……待て。その倉庫の年間維持費と、稼働率は?」
「ガルドさん! そっちに食いつかないで!」
「商人として当然だろう!」
ヴェルティアは嬉しそうに笑った。
「まあ! 蓮様のお仲間も、商売の話がお好きなのですね!」
「俺は今、結婚の話をしているんじゃないんだよ!」
「私も、商会の話をしているつもりですわ」
「絶対に違う!」
◇
ひとしきり騒いだ後。
蓮は、ヴェルティアに改めて尋ねた。
「八百年前に失った大切な人って……どんな人だったんですか?」
ヴェルティアの表情が、静かに変わった。
「商人でしたわ」
「商人?」
「ええ。私がまだ、今ほどの力を持っていなかった頃。彼は、どんな相手にも同じように接する人でした」
彼女は窓の外を見た。
「貴族にも、貧しい村人にも、獣人にも、異国の旅人にも。相手が何者であっても、必要なものを尋ね、できる限りのものを届けていました」
蓮は黙って聞いていた。
「私は当時、力こそがすべてだと思っていました。強ければ奪われない。恐れられれば裏切られない。そう信じていたのです」
「……」
「けれど、彼は違いました。強さではなく、約束を守ることが大切なのだと教えてくれた」
ヴェルティアは、わずかに微笑んだ。
「私が彼に商売のやり方を尋ねたとき、彼はこう言いました。『相手が本当に必要としているものを知ること。それが商人の始まりだ』と」
蓮は目を見開いた。
それは、古い商人の記録に残されていた言葉とよく似ていた。
境界を守る商人が受け継いできた教え。
金貨を積み上げるだけでは、商売は続かない。
必要なものを届け、信頼を積み重ねる。
「……その人は、境界に関係していたんですか?」
「ええ」
ヴェルティアは、ゆっくりとうなずいた。
「彼は、世界と世界をつなぐ仕事に関わっていました。ですが、ある日、境界が崩れ始めたのです」
彼女の手が、かすかに震えた。
「亀裂から黒い霧があふれ、町が飲み込まれていきました。彼は人々を逃がすため、最後まで境界の近くに残った」
「……助からなかったんですか?」
ヴェルティアは答えなかった。
ただ、赤い瞳を伏せた。
それだけで、蓮には十分だった。
◇
「それ以来、私は境界に関わる取引網を調べ続けてきました」
ヴェルティアは、再び顔を上げた。
「同じ悲劇を繰り返さないために。そして、あのとき何が起きたのかを知るために」
「だから、黒い取引網を追っているんですね」
「ええ。信用値の操作も、商人たちの権利を不当に奪う行為も、境界を不安定にする仕組みの一部かもしれません」
バルトが拳を握りしめた。
「俺の店が潰れたことも、その一部だった可能性がある……」
「まだ断定はできませんわ。でも、あなたの記録に残された異常は、調べる価値があります」
ヴェルティアは、バルトをまっすぐに見た。
「あなた自身が犯した契約違反と、誰かが仕組んだ記録の改ざん。その二つを混同してはいけません。責任を取るべきことは取る。そして、身に覚えのない罪は、証拠によって明らかにするのです」
バルトは深くうなずいた。
「……ありがとう。俺は、最後まで調べる」
蓮も、静かにうなずいた。
この事件は、ただ誰かを倒せば終わるものではない。
失われた信用を取り戻すこと。
改ざんされた記録を正すこと。
そして、境界が壊される理由を明らかにすること。
それらすべてが、商人としての仕事なのだ。
◇
そのとき。
ヴェルティアの表情が、突然変わった。
「……来ましたわね」
「え?」
彼女は窓の外を見た。
港の上空。
黒い雲が、不自然な速さで集まり始めていた。
「何だ、あれ……?」
蓮がスマートフォンを取り出す。
【境界反応:急上昇】
【黒曜港周辺:異常魔力を検出】
【発生源:港湾倉庫街】
ミリアが立ち上がった。
「魔力が急激に集まっています!」
次の瞬間。
遠くで爆発音が響いた。
ドォォォンッ!
港の一角から、黒い霧が噴き上がる。
船員たちの悲鳴。
警備兵の叫び。
港全体が、騒然となった。
「管理局へ報告を!」
ガルドが叫ぶ。
だが、ヴェルティアはすでに窓際へ移動していた。
「報告は後ですわ。あの場所には、私の商会の倉庫があります」
彼女の背中から、黒い翼が広がった。
「ヴェルティアさん!」
蓮が呼び止める。
彼女は振り返り、ほんの少しだけ微笑んだ。
「ご安心くださいませ、蓮様。すぐに片づけてまいります」
「一人で行くつもりですか!?」
「ええ」
その声には、迷いがなかった。
「この程度の魔力反応なら、私一人で十分ですわ」
次の瞬間。
ヴェルティアの姿が、窓の向こうへ消えた。
風だけが、応接室に残された。
蓮は、あまりの速さに言葉を失った。
「……飛んで行った?」
ミリアが窓の外を見つめた。
「いえ。飛ぶよりも速い移動魔法です。あれほどの距離を、ほとんど一瞬で……」
蓮は、スマートフォンを握りしめた。
画面に、新しい表示が浮かぶ。
【高位生命反応:ヴェルティア】
【戦闘状態:移行】
【魔力出力:測定不能】
「測定不能って……」
蓮は思わず苦笑した。
「本当に、とんでもない人だな……」
だが、その顔から笑みが消える。
黒い霧の中に、何かが動いていた。
スマートフォンが警告を発する。
【未知の境界反応】
【接続先:境界の始点】
【注意:周辺空間の侵食を確認】
蓮は窓の外を見つめた。
ヴェルティアは強い。
圧倒的な魔力も、体術も、経験もある。
それでも、相手は世界の境界そのものに干渉している可能性がある。
「……ヴェルティアさんなら大丈夫、なんて簡単には言えないな」
蓮は息を吸った。
「俺たちも、できることを探そう」
そして、港の上空。
黒い霧を切り裂くように、深紅の光が走った。
その光の中で、ヴェルティアの声が響いた。
「私の港で、好き勝手をするのは――」
黒い翼が大きく広がる。
「ここまでですわ!」
次の瞬間、港の空が真紅に染まった。
千年を生きる吸血鬼が、本気の戦闘を開始したのだった。




