第38話 吸血鬼の女王、覚醒! 魔法も体術も規格外ですわ!
「交渉開始まで、あと三日」
地下の扉から聞こえた声。
その言葉を最後に、古い記録保管室は静まり返った。
蓮はスマートフォンを握りしめていた。
【境界の始点】 【接続先:不明】 【次回接続予定:未定】
「……いったい、何なんだよ」
「蓮様」
隣から声がした。
振り向くと、ヴェルティアがいつもの優雅な笑みを浮かべていた。
「ここから先は、私にお任せくださいませ」
「え?」
「黒曜港で、私の大切な方を勝手に交渉相手に指定するなんて……少々、礼儀を教えて差し上げる必要がありそうですわね」
「いや、相手がどこにいるかも分からないんだけど……」
「ええ。ですから、まずは調べますの」
ヴェルティアは扉に向き直った。
その瞬間。
彼女の赤い瞳が、わずかに光った。
「……そこにいるのでしょう?」
誰もいないはずの廊下に向かって、ヴェルティアが語りかける。
次の瞬間、天井の影が不自然に揺れた。
「見つかったか」
低い声。
黒い仮面をつけた男が、天井から音もなく降り立った。
黒い外套。
両手には、黒い短剣。
その刃には、見覚えのある蝶の紋様が刻まれていた。
ミリアが息をのむ。
「この魔力……記録装置と同じ系統です!」
男は蓮を見た。
「境界の鍵を渡せ。そうすれば、お前たちには手を出さない」
「断る」
蓮は即答した。
「そもそも、鍵なんて持ってない。俺が持っているのはスマートフォンだ」
「ならば、その端末ごと奪う」
男の姿が消えた。
「速い!」
蓮が反応するより早く、黒い短剣が迫る。
だが――。
キィンッ!
甲高い金属音が響いた。
短剣は、蓮に届く寸前で止まっていた。
ヴェルティアの指が、刃を挟んでいたのだ。
「……え?」
蓮が目を見開く。
ヴェルティアは短剣を指先でつまんだまま、にっこりと微笑んだ。
「蓮様との商談中ですの。邪魔をしないでくださる?」
男が短剣を引き抜こうとする。
動かない。
「なっ……!」
「それに」
ヴェルティアの笑みが消えた。
「私の大切な方に刃を向けたこと。後悔していただきますわ」
次の瞬間。
ヴェルティアの姿が消えた。
ドゴォンッ!!
男の身体が壁まで吹き飛んだ。
「な、何が起きたんだ!?」
蓮には、ほとんど見えなかった。
ヴェルティアは元の場所に立っていた。
ドレスの裾すら、ほとんど揺れていない。
「今のは……蹴り?」
ガルドが呆然とつぶやいた。
「そうですわ」
ヴェルティアは何事もなかったかのように答えた。
「相手の重心を崩してから、腹部へ蹴りを入れましたの。基本ですわね」
「基本!?」
蓮の声が裏返った。
*
男は壁から身体を起こした。
「……吸血鬼の女王、ヴェルティア……!」
「まあ。私をご存じでしたのね」
ヴェルティアは口元に手を添えた。
「それなら、最初から逃げればよろしかったのに」
「ふざけるな!」
男が両手を広げる。
床から黒い鎖が飛び出した。
狙いはヴェルティアの両脚。
しかし、彼女は一歩も動かなかった。
鎖が脚に絡みつく。
「捕らえたぞ!」
男が叫ぶ。
「これで――」
バキンッ!
鎖が砕け散った。
ヴェルティアが軽く脚を振っただけだった。
「魔法で拘束するのは悪くありませんわ。でも、相手の身体能力を考慮しなければ意味がありませんの」
「化け物め……!」
「失礼ですわね。こう見えて、私は淑女ですのよ?」
「どこがだよ!」
思わず蓮が突っ込んだ。
ヴェルティアは一瞬だけ蓮を振り返った。
「蓮様。今の突っ込み、素敵ですわ!」
「戦闘中に何を言ってるんだ!」
その隙を突き、男が短剣を投げた。
一本、二本、三本。
黒い刃が、ヴェルティアの死角から迫る。
彼女は振り向きもしなかった。
上体をわずかに傾け、一本目をかわす。
二本目は手の甲で弾き、三本目は指先でつまみ取った。
そのまま、つまんだ短剣を床へ落とす。
カラン。
「……次は?」
ヴェルティアの声は、ひどく静かだった。
男の表情が引きつる。
「ならば、これならどうだ!」
男の身体から、黒い魔力が噴き出した。
背後に巨大な魔法陣が浮かぶ。
「黒蝕の牢獄!」
無数の黒い針が、部屋全体を覆い尽くす。
「危ない!」
ミリアが叫ぶ。
だが、ヴェルティアは動じなかった。
彼女の背中から、黒い翼がゆっくりと広がる。
その翼が一度、羽ばたいた。
ゴォッ!
黒い針が、空中で止まった。
「な……」
「私に闇の魔法を使うなんて」
ヴェルティアの瞳が、深紅に輝く。
「ずいぶんと、勇気がおありなのね」
彼女が指を鳴らした。
パチン。
空中の針が、一斉に反転した。
「しまっ――」
針は男を避け、周囲の壁へ突き刺さった。
逃げ道だけを塞ぐ、精密な制御。
ヴェルティアは魔力の流れを完全に把握していた。
「魔法は、ただ大きな力をぶつければよいものではありませんわ。どこへ、どの程度の力を使うのか。それを理解できない方は、いくら魔力があっても一流にはなれませんの」
蓮は息をのんだ。
(強い……)
今までにも、強力な魔法使いは見てきた。
だが、ヴェルティアの戦い方は違う。
力任せではない。
相手の動きを読み、攻撃を利用し、必要最小限の動きで制圧する。
まるで、最初から戦いの結末が見えているかのようだった。
*
「まだだ!」
男が咆哮した。
黒い魔力が身体を覆い、筋肉が膨れ上がる。
腕が異形の形へと変わった。
「境界の鍵を手に入れるためなら、俺は何度でも戦う!」
男が床を蹴った。
今度は魔法ではない。
純粋な体術による突進だった。
拳がヴェルティアの顔面へ迫る。
ヴェルティアは、ほんのわずかに首を傾けた。
拳が頬をかすめる。
その腕を片手で受け止め、相手の肘を外側へ流す。
次に、足を相手の軸足へ引っかけた。
「なっ――」
男の身体が傾く。
ヴェルティアはそのまま相手の手首を取り、身体を回転させた。
ドンッ!
男の背中が床に叩きつけられた。
さらに、逃げようとした男の腕を押さえ、首元へ膝を近づける。
ほんの一瞬。
それだけで、男は身動きが取れなくなった。
「体術まで……!」
ミリアが驚きの声を上げる。
ヴェルティアは男を見下ろした。
「力を振り回すだけでは、私には勝てませんわ」
「ぐっ……!」
男が身体をねじり、無理やり拘束を抜けようとする。
その瞬間、ヴェルティアの手に黒い魔力が集まった。
「それから、関節を無理に動かすのはお勧めしません。余計に痛みますわよ」
「くそっ!」
男が最後の力を振り絞り、短剣を取り出す。
刃がヴェルティアの腕をかすめた。
赤い血が、一筋流れた。
「ヴェルティアさん!」
蓮が声を上げる。
だが、ヴェルティアは自分の腕を見ただけだった。
傷口が、みるみるうちに塞がっていく。
数秒後には、傷跡すら残っていなかった。
「……再生能力まで」
蓮が呆然とする。
ヴェルティアは、ふっと笑った。
「ご心配なく。これくらい、かすり傷ですわ」
そして。
彼女の笑顔が消えた。
「ですが――」
黒い翼が大きく広がる。
部屋の空気が、一気に冷え込んだ。
「私に傷をつけた責任は、取っていただきます」
ヴェルティアの姿が、再び消えた。
男が振り向いたときには、もう遅かった。
一発目。
鳩尾への掌底。
二発目。
腕を崩す肘打ち。
三発目。
足元を払う回し蹴り。
最後に、闇の魔力をまとった拳が、男の胸元の魔法装置を正確に打ち抜いた。
バキィィンッ!
装置が砕け、黒い魔力が霧散した。
男の身体から力が抜ける。
ヴェルティアは倒れる男を片手で受け止め、床へ静かに横たえた。
「お休みなさいませ」
戦闘終了。
時間にして、わずか数十秒だった。
*
「…………」
蓮は言葉を失っていた。
ガルドも、バルトも、ミリアも、しばらく何も言えなかった。
やがて、ガルドがぽつりとつぶやいた。
「お前……あんな相手から未来の夫にしたいと言われているのか」
「そこ!?」
「いや、考えてみろ。あれだけ強い吸血鬼が、わざわざお前に夢中なんだぞ」
「俺にも理由が分からないんだよ!」
ヴェルティアは、倒れた男を拘束しながら振り返った。
「蓮様。ご無事ですか?」
「あ、ああ。俺は大丈夫だけど……ヴェルティアさん、ものすごく強いんだな」
その言葉を聞いた瞬間。
彼女の表情が変わった。
先ほどまでの冷酷な女王の顔が消え、頬がほんのり赤くなる。
「まあ……!蓮様が見つめてる…キュン」
両手を胸の前で組み、うっとりと蓮を見つめた。
「蓮様が、私の強さを認めてくださった……!」
「いや、見たままの感想だけど」
「嬉しいですわ! もっと褒めてくださいませ!」
「切り替えが早すぎる!」
「では、もう一度、戦ってお見せしましょうか?」
「いや、もう十分です!」
ヴェルティアは少し残念そうにした。
「そうですの……。蓮様に格好いいところを、もっと見ていただきたかったのに」
「十分すぎるほど見たよ!」
セレナは腕を組んでいた。
「確かに、戦闘能力は見事ね」
「ありがとうございます、セレナ様」
「でも、蓮に近づくときは話が別です」
「まあ。そこは譲れませんわね」
二人の間に、再び火花が散った。
蓮は天井を仰いだ。
(戦闘が終わっても、別の戦いが始まるのか……)
*
気絶した男を管理局の警備兵へ引き渡し、壊れた魔法装置を調べると、内部から小さな黒い結晶が見つかった。
ヴェルティアは結晶を見た瞬間、顔を険しくした。
「これは……」
「知っているのか?」
蓮が尋ねる。
「ええ。私の組織が追っていたものと同じですわ。取引記録を改ざんする装置に使われていた魔力の一部が、この結晶に封じられています」
ミリアが慎重に結晶を確認する。
「でも、これは記録を操作するだけの道具ではありません。境界の反応もあります」
蓮はスマートフォンを近づけた。
【未知の魔法装置】 【接続履歴:検出】 【接続先:境界の始点】 【使用者情報:消去済み】
さらに、別の表示が浮かび上がった。
【管理者からの伝言】 【交渉開始まで:残り三日】
蓮の顔から笑みが消えた。
「こいつは、ただの襲撃犯じゃない。向こうから、俺たちの様子を探りに来たんだ」
「おそらく、その通りですわ」
ヴェルティアは結晶を見つめた。
「そして、私がどこまで知っているのかも、確かめようとしたのでしょう」
「ヴェルティアさん。あなたは、どこまで知っているんですか?」
彼女はすぐには答えなかった。
やがて、深紅の瞳を蓮へ向ける。
「すべてをお話しするには、まだ証拠が足りませんわ。ただ、一つだけ確かなことがあります」
「何です?」
「この取引網は、商人たちの信用を操作するためだけに作られたものではありません」
ヴェルティアは、黒い結晶をそっと箱に戻した。
「本当の目的は――世界と世界の境界を、自由に開閉することですわ」
蓮のスマートフォンが、低く震えた。
【境界の始点】 【重要情報を検出】 【蓮の能力との関連:極めて高い】
蓮は画面を見つめた。
自分の力は、ただ異世界を行き来するためのものではないのかもしれない。
そして、境界を自由に開閉できる力を、誰かが狙っている。
「……三日後、交渉に応じるかどうかは、俺たちが決める」
蓮は顔を上げた。
「相手の言いなりになるつもりはない。取引するなら、条件を全部確認する。それから判断する」
ヴェルティアは、嬉しそうに微笑んだ。
「素晴らしいですわ、蓮様。やはり、あなたは私の理想の商人です」
「未来の夫は撤回してくれよ……」
「それは別のお話ですわ!」
即答だった。
ガルドが笑い、バルトも苦笑した。
だが、蓮はまだ気づいていなかった。
ヴェルティアが最後に口にした言葉。
世界と世界の境界を、自由に開閉すること。
それが可能になったとき、何が起こるのか。
そして、なぜ彼女がその話をするときだけ、あれほど深刻な表情を見せたのか。
ヴェルティアは窓の外、黒曜港のさらに向こうを見つめていた。
その赤い瞳には、長い年月を生きてきた者だけが知る、深い警戒の色が浮かんでいた。




