第35話 吸血鬼美女、蓮を未来の夫に認定!? 水晶越しの溺愛が止まらない!
「……寒い」
黒曜港の宿屋。
蓮は朝から何度も腕をさすっていた。
「蓮、風邪でも引いたの?」
ミリアが心配そうに尋ねる。
「いや、違うと思う。なんかこう……誰かに見られてるような気がするんだよ」
「またですか?」
「またって言わないでくれ!」
蓮は窓の外を確認した。
誰もいない。
廊下にも異常はない。
スマートフォンにも警告は表示されていなかった。
それなのに。
ぞわっ。
「うわっ!?」
突然、背筋に強烈な寒気が走った。
「れん、どうしたの?」
モモが頭の上に舞い降りる。
「わからない……。今、ものすごく嫌な予感がした」
そのころ蓮は、まだ知らなかった。
黒薔薇の館の最上階で、自分の人生を根本から変えかねない、とんでもない企みが進行していることを。
◇
黒薔薇の館。
最上階にある私室には、巨大な天蓋付きベッドと、宝石をちりばめた家具が並んでいた。
その中央に置かれているのは、人の背丈ほどもある大きな水晶玉。
ヴェルティアは、ふかふかのソファに寝そべりながら、水晶玉をじっと見つめていた。
そこに映っているのは――蓮。
宿屋の部屋で腕をさすり、寒そうにしている姿だった。
「……ああ、蓮くん……」
ヴェルティアの頬が、ほんのり赤く染まる。
普段は冷酷な取引網の支配者。
幹部たちを震え上がらせ、何百年もの間、数々の異世界を渡り歩いてきた高位吸血鬼。
そんな彼女が今。
「かわいい……!」
両手で頬を押さえ、だらしなく頬を緩めていた。
「寒いの? 寒いのね? ああ、もう! 私が温めてあげたいわ……!」
水晶玉に顔を近づける。
「あと少しだけ近くに来てくれたら、もっとよく見えるのに……」
もちろん、水晶玉の中の蓮には聞こえない。
それでもヴェルティアは、うっとりとため息をついた。
「境界を切断する力を持っていて、仲間を守るために危険へ飛び込んで……しかも、商談ではきっちり契約条件を確認する……」
指先で水晶玉をなでる。
「なんて素敵なの……!」
彼女は突然、勢いよく起き上がった。
「決めたわ!」
部屋の外にいた侍女が、びくりと肩を震わせる。
「ヴェルティア様!? 何事ですか!?」
「大変よ!」
「敵襲ですか!?」
「違うわ!」
ヴェルティアは胸に手を当て、真剣な顔で宣言した。
「私、結婚することにしたの!」
「……はい?」
侍女は固まった。
「結婚……でございますか?」
「ええ!」
ヴェルティアは満面の笑みで水晶玉を指さした。
「この方と!」
水晶玉には、ちょうど蓮がくしゃみをする姿が映っていた。
「へっくしょん!」
ヴェルティアは両手で口を覆った。
「まあっ! くしゃみまでかわいい……!」
「ヴェルティア様……?」
侍女の顔から、すうっと血の気が引いた。
長年仕えている彼女は知っている。
ヴェルティアが一度何かを決めると、たとえ国一つが反対しようとも、簡単には考えを変えないことを。
しかも今回は。
よりにもよって、本人の許可すら取っていない結婚話だった。
「ヴェルティア様。恐れながら、その方は結婚に同意されているのでしょうか……?」
「まだよ」
「まだ、でございますか」
「でも大丈夫!」
ヴェルティアは自信満々に胸を張った。
「私が未来の夫に認定したもの!」
「認定……?」
「そう! 未来の夫よ!」
侍女は天井を仰いだ。
(始まってしまった……)
◇
そのころ、宿屋では。
「……くしゅん!」
蓮が再びくしゃみをした。
「大丈夫、蓮?」
セレナがすぐに近寄る。
「本当に風邪じゃない?」
「たぶん違うよ。さっきから寒気がするだけで……」
セレナは蓮の額に手を当てた。
「熱はなさそうね」
「う、うん」
距離が近い。
銀色の髪が頬に触れそうになり、蓮は思わず目をそらした。
「……セレナ、近くない?」
「心配しているのよ?」
「それはありがたいんだけど……」
「何か問題でも?」
「ありません!」
その様子を見ていたモモが、羽をぱたぱたさせた。
「れん、モテモテだね!」
「そんなことはない!」
「でも、セレナもいるし、吸血鬼のお姉さんもいるよ!」
「……は?」
蓮の動きが止まった。
「モモ。今、何て言った?」
「吸血鬼のお姉さん!」
「なんで、その人が出てくるんだよ!?」
モモはきょとんとした。
「だって、さっきから黒い魔力の匂いがするもん」
ミリアがすぐに反応した。
「黒い魔力?」
「うん。甘いお花みたいな匂い!」
蓮の背筋に、再び寒気が走った。
「……まさか」
スマートフォンを取り出す。
画面には、何も表示されていない。
だが、蓮は確信しつつあった。
あの吸血鬼美女。
ヴェルティア。
彼女が何かを企んでいる。
しかも、商売とは別の何かを。
「……頼むから、面倒なことだけはやめてくれよ」
蓮は天井を見上げた。
◇
一方、黒薔薇の館。
ヴェルティアは、すでに結婚後の計画を立て始めていた。
「まずは、蓮くん専用の商館を用意しましょう」
侍女が恐る恐る尋ねる。
「……商館、でございますか?」
「ええ。異世界の商品を自由に扱える、最高級の商館よ。倉庫も、店舗も、輸送設備も全部そろえるの」
「それは……大変立派な贈り物かと」
「でしょう?」
ヴェルティアはうっとりした。
「それから、毎朝おいしい朝食を用意して……お仕事から帰ってきたら、私がお出迎えして……」
彼女の頬が、さらに赤くなる。
「そして、二人で仲良くお茶を飲むの……」
侍女は静かに口を開いた。
「ヴェルティア様。蓮様は、まだあなた様の婚約者ですらありません」
「だから、これからなるのよ!」
「ご本人の意思は……」
「もちろん大切にするわ!」
ヴェルティアは真顔でうなずいた。
「嫌がることを無理強いするつもりはないもの。まずは私の魅力を知ってもらうの」
そう言いながら、彼女は水晶玉を抱きしめた。
「……でも、私のことを好きになってくれたら、最高よね」
うっとり。
だらり。
完全に表情が緩んでいる。
そこへ、黒い外套を着た男が入ってきた。
グラディオの失脚後、取引網の管理を一時的に任されていた幹部の一人、ザイラスである。
「ヴェルティア様。緊急のご報告が――」
彼は言葉を止めた。
水晶玉に顔を近づけ、頬を緩めている主。
「……何をなさっているのですか?」
「見ればわかるでしょう?」
「……水晶玉を?」
「蓮くんを見ているのよ!」
ザイラスは、ゆっくりと水晶玉を見た。
そこには、宿屋で帳簿を広げている蓮が映っていた。
「この商人が、何か?」
ヴェルティアは振り返った。
「ザイラス」
「はっ」
「この方を、私の未来の夫に認定したわ」
「…………は?」
今度はザイラスが固まった。
「未来の……夫?」
「ええ。だから今後、蓮くんに危害を加える者は、私の敵と見なします」
その瞬間、部屋の空気が変わった。
先ほどまで浮かれていた美女の目に、冷酷な支配者の光が戻る。
「取引網の調査は続けなさい。ただし、蓮くんとその仲間たちには手を出さないこと」
「……承知しました」
「それから、黒曜港の市場で日本の商品を扱える店舗を探して。蓮くんが商売をするなら、最高の条件を用意するわ」
「かしこまりました」
ザイラスは一礼して退室した。
扉が閉まる。
その瞬間。
ヴェルティアは再び水晶玉に向き直った。
「……蓮くん。あなたが商売をする姿、もっと見たいわ……」
頬が緩む。
「いつか、私の隣で笑ってくれるかしら……」
侍女は、聞こえないふりをした。
◇
その夜。
蓮はベッドに横になっていた。
だが、眠れない。
理由はわからない。
何か、とんでもなく嫌な予感がするのだ。
「……なんだろう。この感じ」
隣のベッドでは、ガルドがすでに寝息を立てている。
モモも枕元で丸くなっていた。
蓮はスマートフォンを確認した。
すると、突然、画面が一瞬だけ紫色に光った。
【未知の高位生命反応:接続】
【対象:ヴェルティア】
【通信内容:不明】
「うわっ!?」
蓮は飛び起きた。
「な、何だ今の!?」
画面には、最後に一行だけ残っていた。
【対象者の認識:未来の夫】
「…………は?」
数秒間、蓮は固まった。
「み、未来の夫!?」
思わず声が裏返る。
ガルドが飛び起きた。
「何事だ! 襲撃か!?」
「違う! 違うんだけど……!」
蓮はスマートフォンを両手で持ち、画面を何度も確認した。
「なんだよ、未来の夫って! 俺、何も契約してないぞ!?」
その騒ぎに、セレナとミリアも駆け込んできた。
「蓮、どうしたの!?」
蓮は無言で画面を見せた。
セレナの笑顔が消えた。
ミリアは目を丸くした。
ガルドは、数秒間の沈黙のあと、腹を抱えて笑い始めた。
「ははははは! 蓮、お前、吸血鬼の女王に求婚されたのか!?」
「されてない! 認定されたんだよ!」
「何が違うんだ!?」
「俺に聞くな!」
セレナは静かにスマートフォンを見つめた。
そして、にっこりと笑った。
「……なるほど」
「セレナ? その笑顔、怖いんだけど」
「大丈夫よ、蓮」
彼女は蓮の肩に手を置いた。
「明日、ヴェルティアさんと、きちんとお話ししましょうね」
「……はい」
なぜだろう。
暗殺者と戦ったときより、今のほうがずっと怖い。
蓮は心の底からそう思った。
そのころ、黒薔薇の館では。
「……蓮くん、今ごろ驚いているかしら?」
水晶玉を抱きしめたヴェルティアが、幸せそうに笑っていた。
「ふふっ。明日が楽しみね、私の未来の旦那様……!」
その顔は、誰にも見せられないほどだらしなく、幸せそうだった。
そして蓮は、異世界の宿屋で再びくしゃみをした。
「……へっくしょん!」




