第9話 狼王の頼み
「……世界を壊す者になるか?」
狼王の言葉が、頭から離れなかった。
城壁の上。
俺は巨大な狼と向かい合っている。
周囲には兵士たち。
冒険者。
商人。
誰も動けない。
「お前は恐れている」
狼王が言った。
「……そりゃ怖いだろ」
「違う」
狼王の赤い目が細くなる。
「お前が恐れているのは、死ではない」
「……」
「自分が何者なのか、分からないことだ」
図星だった。
「……あんた、俺の何を知ってる?」
「何も知らぬ」
「じゃあ――」
「だが、我らは知っている」
「何を?」
狼王が空を見上げた。
「境界の匂いを」
「匂い?」
「あの扉から漂うものだ」
狼王はギルドの方向を見る。
「我ら魔獣は、あの扉を本能的に恐れる」
「なぜ?」
「分からぬ」
「分からないのか?」
「ああ」
狼王は静かに答えた。
「ただ、遠い昔から伝えられている」
狼王の周囲にいた魔狼たちが、低く唸る。
「境界の向こうには、世界を喰らうものがいる。」
俺は息を呑んだ。
「世界を……喰らう?」
「そうだ」
「それって、俺の世界にいるのか?」
「分からぬ」
「じゃあ、カーテンの向こうに?」
「それも分からぬ」
「……」
なんだそれ。
分からないことだらけじゃないか。
俺が頭を抱えていると、ミリアが口を開いた。
「狼王様」
「何だ、人の子よ」
「なぜ、私たちを襲わないのですか?」
狼王はミリアを見る。
「我らは、お前たちを襲いに来たのではない」
「では、なぜ王都へ?」
「頼みがある」
「頼み?」
狼王は俺を見る。
「境界の子」
「俺?」
「そうだ」
狼王が頭を下げた。
「頼む」
周囲がざわめく。
巨大な魔狼の王が、人間に頭を下げている。
「我らの森を救ってほしい」
「森を?」
「数日前から、森の奥で異変が起きている」
「どんな?」
「木々が枯れ」
狼王の声が低くなる。
「魔獣たちが狂い」
「……」
「そして、境界の匂いが濃くなっている」
俺は黙った。
「それが俺のせい?」
「分からぬ」
「じゃあ――」
「だが」
狼王が俺を見る。
「お前が現れた日から、異変が始まった」
「……」
責任を感じないわけではない。
だが、自分が原因だと決めつけるのも違う。
「分かった」
俺は答えた。
「調べる」
「レンさん!」
ミリアが驚く。
「いいのですか?」
「原因が俺なら、放っておけない」
狼王が目を細めた。
「感謝する」
「ただし」
俺は指を一本立てる。
「条件がある」
「何だ?」
「俺たちを襲わないこと」
「約束しよう」
「あと――」
俺は少し考える。
「森の中にあるものを、勝手に売ったりしない」
狼王が黙る。
「……商人なのか?」
「一応」
ミリアが吹き出した。
「レンさんらしいです」
狼王も――
ほんの少しだけ口元を緩めた。
「よかろう」
「本当?」
「ああ」
「じゃあ決まりだ」
こうして。
俺は初めて、異世界の魔物と正式に取引をした。
ただし。
今回の商品は――
金貨ではない。
俺たちが受け取るのは、狼王との信頼だった。
その夜。
王都の宿。
俺はベッドに座りながらスマホを見る。
残り時間。
11時間21分。
「……明日には日本へ戻れる」
そう呟いた瞬間。
スマホが震えた。
画面を見る。
知らない通知だった。
『境界接続候補を検出』
「……また?」
画面をタップする。
そこには一つの名前が表示されていた。
『第一接続先:日本』
そして、その下に――
もう一つ。
『第二接続先:未登録』
「……第二?」
俺が画面を見つめていると。
窓の外から、狼の遠吠えが聞こえた。
狼王の声だった。
その遠吠えに答えるように。
森の奥から、無数の狼が鳴き始める。
まるで――
何かが目を覚ましたように。
そして。
俺のスマホに新しい文字が浮かんだ。
『第二接続先を探しています』
俺は知らない。
その「第二接続先」が――
日本でも、この世界でもない場所だということを。




