第4話 なぜ、魔狼は逃げたのか
「……レンさん」
「ん?」
商人ギルドを出たあと、ミリアはずっと何かを考えていた。
「どうした?」
「少し聞いてもいいですか?」
「もちろん」
「昨日の魔狼のことです」
「ああ」
あの巨大な狼。
少女を追いかけていた、あの魔物だ。
「何か気になることが?」
「はい」
ミリアは足を止めた。
「魔狼は、どうして逃げたんでしょう?」
「……ボールペンが怖かったんじゃないの?」
「違います」
即答だった。
「違うの?」
「はい」
ミリアは真剣な顔をしている。
「魔狼は、あの程度の攻撃では逃げません」
「でも、鼻に当たったぞ」
「それくらいなら怒って襲ってきます」
「……じゃあ、なんで?」
「分かりません」
ミリアは首を横に振った。
「だから気になっているんです」
俺は昨日のことを思い出した。
ボールペンを投げた。
魔狼の鼻に当たった。
そして――
魔狼が俺を見た。
あの瞬間。
確かに、目が合った。
「……そういえば」
「何です?」
「狼、俺を見てたな」
「はい」
「何かに驚いたような顔をしてた」
「私もそう思いました」
ミリアは腕を組んだ。
「魔狼は、レンさんを見た瞬間に動きを止めました」
「俺を?」
「はい」
「でも、俺は何もしてない」
「本当に?」
「本当に」
ミリアはしばらく俺を見る。
「……では、これを」
ミリアが小さな石を取り出した。
「何?」
「魔力測定石です」
「魔力?」
「触ってください」
「俺が?」
「はい」
言われるまま石に触れる。
何も起きない。
「……」
「……」
「普通の石だな」
「違います」
ミリアが驚いた。
「反応しています」
「え?」
石の中心に、薄い光が浮かんでいる。
「これ、どういうこと?」
「普通の人なら、もっと弱い反応です」
「俺は?」
「分かりません」
ミリアの表情が険しくなる。
「でも、これは魔力というより……」
「というより?」
「別の何かです」
「別の何か?」
「はい」
そのとき。
街の外から――
グルルル……
低い唸り声が聞こえた。
「……魔物?」
俺たちは振り返った。
街道の先。
一匹の狼が立っている。
昨日の魔狼とは違う。
少し小さい。
だが、こちらを見ている。
「ミリア」
「動かないでください」
狼が一歩近づく。
二歩。
三歩。
そして――
俺の目の前まで来た。
「……」
狼が俺を見上げる。
鼻を鳴らす。
クンクンと匂いを嗅ぐ。
そして。
突然、後ずさった。
「……え?」
狼が震えている。
そして俺ではなく――
俺の後ろを見ている。
「何を見てる?」
振り返る。
そこには何もない。
ただ――
風に揺れるカーテン。
「……カーテン?」
俺の部屋に繋がる窓。
いつの間にか、少しだけカーテンが開いていた。
狼はその瞬間――
逃げ出した。
「待って!」
ミリアが追いかけようとする。
「やめたほうがいい!」
「でも!」
「もう十分離れた!」
狼は一目散に草原の向こうへ走っていった。
俺は窓を見る。
「……カーテンを見て逃げた?」
「たぶん」
ミリアは青ざめている。
「レンさん」
「ん?」
「その窓……」
「これ?」
「絶対に他の人には見せないでください」
「……なんで?」
ミリアは答えなかった。
しばらくして、ようやく口を開く。
「昔の伝承があります」
「伝承?」
「世界には、こちら側とあちら側を繋ぐ『境界』が存在する、と」
「境界……」
「そして、その境界の向こう側には――」
ミリアが窓を見る。
「この世界の魔物が恐れるものがある、と言われています」
「それが、日本?」
「分かりません」
ミリアは首を振る。
「でも……」
カーテンを見る。
「魔物は、あの窓を恐れている」
「……」
「そして、レンさん自身も」
「俺?」
「昨日の魔狼は、レンさんを見て逃げました」
俺は自分の手を見る。
「俺には何もないぞ」
「私にも分かりません」
ミリアは小さく呟いた。
「ただ……」
「ただ?」
「レンさんがこの世界に来たときから、魔力の流れが少し変なんです」
「俺が来たから?」
「はい」
その言葉に、背筋が寒くなった。
俺はただ、カーテンを開けただけだ。
それなのに。
魔物が逃げる。
魔力が変わる。
そして、見知らぬ世界に繋がっている窓。
「……俺って、何者なんだ?」
思わず呟いた。
そのときだった。
遠くの森から――
狼の遠吠えが響いた。
しかし、普通の遠吠えではなかった。
怯えている。
何かを警告しているような声。
ミリアが呟く。
「……あれは、仲間への警告です」
「何て言ってるんだ?」
ミリアは青ざめた顔で森を見る。
「近づくな」
「……」
「あの人間には、触れるな。」
風が吹いた。
カーテンが揺れる。
その向こうには、いつもの俺の部屋。
そして――
机の上に置いてあったスマホの画面が、誰にも触られていないのに点灯した。
画面に表示された時刻は、
午前七時十二分。
俺が最初にカーテンを開けた時間と、まったく同じだった。
そして画面には――
見たことのない文字が、一瞬だけ浮かんでいた。
『接続を確認しました』
次の瞬間。
画面は元に戻った。
「…………」
俺は何も言えなかった。
この異世界への扉は――
偶然、開いたわけではないのかもしれない。




