第22話 境界喰らいとの取引
黒い霧の中に、人影が立っていた。
顔は見えない。
ただ、赤い目だけが浮かんでいる。
『お前自身を渡せ』
蓮は黙っていた。
ミリアが前に出る。
「そんな取引、するわけない!」
リナも叫ぶ。
「レンは渡しません!」
狼王が牙をむいた。
「貴様……」
だが、蓮は手を上げた。
「待って」
「レン?」
「こいつ、取引って言ったよな?」
蓮は黒い人影を見る。
『そうだ』
「なら、話くらい聞こう」
ガルドが驚く。
「おい、正気か?」
「商人だからな」
蓮は苦笑した。
「取引の話を聞かずに断るのは、商人としてどうなんだ?」
「……お前、本当に商人馬鹿だな」
「褒め言葉?」
「知らん」
黒い人影が手を広げた。
『お前が望むものを一つ与える』
『金か?』
『力か?』
『日本への完全な帰還か?』
蓮の目が動いた。
「日本へ……」
黒い人影は続ける。
『お前の世界へ帰してやろう』
『二度と異世界へ来る必要もない』
『家族も、仕事も、元の生活も――』
「……」
蓮は黙った。
確かに魅力的だった。
普通の生活。
会社員だった頃の日常。
異世界で命を狙われることもない。
怪物と戦う必要もない。
毎日、普通に暮らせる。
「レン……」
ミリアが不安そうに見る。
リナも黙っていた。
蓮はしばらく考えた。
そして――。
「断る」
『……なぜだ?』
「今さらだからな」
『何がだ?』
蓮は笑った。
「俺、もうこの世界を知っちゃったんだよ」
ミリアを見る。
リナを見る。
狼王を見る。
そしてガルドを見る。
「こいつらを知ってる」
「助けたいと思ってる」
「だから――」
蓮は首を振った。
「一人だけ帰るって選択肢はない」
ミリアの目に涙が浮かぶ。
「レン……」
狼王が静かに言った。
「それが貴様の答えか」
「ああ」
『愚かな……』
黒い人影が笑った。
『ならば、別の条件を提示しよう』
空間に黒い文字が浮かぶ。
【取引条件】
【第一:佐伯蓮の身体】
【第二:日本への接続権】
【第三:リナの世界の境界】
【対価:境界喰らいによる侵食停止】
蓮は眉をひそめた。
「……俺を渡せば、世界への攻撃をやめる?」
『そうだ』
「日本も?」
『干渉を停止する』
「リナの世界も?」
『停止する』
蓮は考える。
「じゃあ――」
ガルドが止める。
「待て」
「何?」
「それは契約じゃない」
「え?」
ガルドは黒い人影を見る。
「一つだけ確認したい」
『何だ?』
「お前は――」
ガルドが目を細める。
「約束を守るのか?」
黒い人影が黙った。
数秒。
そして――。
『取引とは、約束ではない』
「……」
『奪うための形式だ』
ガルドの表情が変わる。
「やっぱりな」
蓮も理解した。
「最初から取引する気なんてない」
『……』
「俺を渡しても、別の世界を狙うつもりだろ」
黒い人影が笑う。
『賢い』
蓮は拳を握る。
「なら、こっちも商人らしくいく」
蓮はスマートフォンを取り出した。
「取引条件を変更する」
『何?』
「俺を商品にするんじゃない」
蓮は画面を操作する。
【新規取引】
【商品:境界の安定】
【販売者:佐伯蓮】
【購入者:第三接続先】
【価格:――】
「価格は――」
蓮はニヤリと笑った。
「お前の情報だ」
『……』
「境界喰らいの正体」
「どこから来たのか」
「何を目的にしているのか」
「そして――」
蓮は黒い人影を指差す。
「お前が本当に誰なのか」
黒い人影が初めて動揺した。
『……それを知ってどうする?』
「決まってるだろ」
蓮は笑う。
「対策する」
スマートフォンが光る。
【交渉を開始】
【相手:第三接続候補】
【情報価格を算出中】
黒い人影の周囲に、無数の文字が浮かび始めた。
『拒否する』
「そうか」
蓮は肩をすくめる。
「じゃあ取引終了だ」
その瞬間。
黒い霧が一斉に動いた。
「来るぞ!」
狼王が叫ぶ。
森全体に黒い腕が何本も現れる。
ミリアが魔法を放つ。
リナが光を放つ。
ガルドの商人たちが商品を抱えて走る。
「蓮!」
「分かってる!」
蓮はリュックを開いた。
「全員、これを使え!」
取り出したのは――。
大量の鏡だった。
「鏡?」
ミリアが首をかしげる。
「そう!」
蓮は鏡を森の周囲に並べていく。
「光を反射させる!」
リナの光が鏡に当たる。
反射。
また反射。
そして――。
森全体に光が広がった。
「うおおおおっ!」
黒い霧が後退する。
『なぜ……』
黒い人影が初めて声を震わせた。
『なぜ人間ごときが――』
「人間だからだよ」
蓮は笑った。
「道具を使って、考えて、工夫する」
「それが商売でも戦いでも同じだ」
スマートフォンが鳴る。
【境界安定度:上昇】
【境界喰らい:接続率低下】
黒い人影が後退する。
しかし――。
その瞬間、蓮の腕の黒い紋様が突然広がった。
「ぐっ……!」
「レン!」
蓮が膝をつく。
【警告】
【第三接続先との接続率:37%】
【50%を超えた場合――】
文字がそこで途切れた。
「50%を超えたら……何なんだよ!」
答えは表示されない。
そして黒い人影が笑った。
『あと13%だ』
蓮の顔が凍る。
『13%になれば――』
黒い目が赤く光った。
『お前は完全に、我々の世界のものになる』




