第27話 記憶を奪う山! 佐伯家最後の商人
翌朝。
北方交易都市の門前に、蓮たちは集まっていた。
防寒着、保存食、飲料水、携帯用カイロ。
そして、万が一に備えた救急用品。
「よし、準備完了!」
蓮が荷物を確認する。
「食料は三日分。スマートフォンの充電も満タン。商品も最低限だけ持ってきた」
ミリアが頷いた。
「今回は商売より調査が優先ですね」
「そう。無理に商品を売る必要はない」
すると、狼王が荷物を覗き込んだ。
「……食料は三日分か」
「そうだよ」
「肉は?」
「保存食の中にあります」
「どれくらいだ?」
「……狼王の食欲を基準にすると、半日分かな」
「少ない!」
「普通の人なら三日分です!」
セレナが笑いながら、蓮の首にマフラーを巻いた。
「蓮様、寒くありませんか?」
「大丈夫です」
「念のため、もう一枚」
「いや、首が回らないんですが!」
「妻として心配なのです♡」
「だから妻じゃない!」
リナが地図を広げながら、くすくす笑った。
「この調子なら、山に着く前に日が暮れそうですね」
「笑ってないで助けて!」
そんなやり取りをしながら、一行は北の山へ向かった。
だが――
山道に入った瞬間、空気が変わった。
風が止まる。
鳥の声が消える。
雪の上に残る足跡さえ、途中で途切れていた。
「……静かすぎる」
蓮は周囲を見回した。
狼王の耳がぴくりと動く。
「妙だ。生き物の気配がない」
ミリアが杖を握った。
「魔力も不安定です。ここから先は、普通の山ではありません」
スマートフォンが鳴る。
【警告】
【記憶干渉領域に接近】
【注意:目的・方向感覚の喪失】
「記憶干渉……」
蓮は画面を見つめた。
「ヴェルティアさんが言っていた、山から戻った商人の話か」
「蓮さん、何かあったらすぐに声をかけてください」
リナが真剣な表情で言う。
「ああ。全員、勝手に離れないこと」
一行は互いの距離を確認しながら、山道を進んだ。
◇
一時間ほど歩いたころだった。
「……あれ?」
蓮が足を止めた。
目の前に、小さな石碑が立っている。
古びた文字が刻まれていた。
『必要なものを渡し、必要なものを受け取れ』
「この言葉……」
蓮は息をのんだ。
佐伯家の第一境界記録にあった言葉と同じだ。
「どうして、こんな場所に……」
石碑の下には、古い商業紋章が刻まれていた。
佐伯家の紋章。
しかし、その隣にはもう一つ、別の紋章がある。
黒く塗りつぶされた紋章だった。
「昨日の倉庫と同じだ……」
その瞬間。
「蓮様?」
セレナの声が聞こえた。
振り返ると、彼女が不思議そうにこちらを見ていた。
「どうしたんですか?」
「え?」
「何を見ているんです?」
蓮は石碑を指差した。
「これだよ。佐伯家の紋章が――」
言いかけて、言葉が止まった。
石碑が、ない。
そこには雪に覆われた岩しかなかった。
「……は?」
蓮は目をこすった。
確かに、今まで石碑があった。
文字も、紋章も見た。
なのに。
「蓮さん?」
ミリアが心配そうに近づく。
「顔色が悪いですよ」
「今、石碑があったんだ」
「石碑?」
「佐伯家の紋章が刻まれた……」
リナが周囲を見回した。
「何もありません」
蓮はスマートフォンを取り出した。
地図には、確かに石碑の位置が記録されている。
だが、画面を更新すると――
その記録も消えた。
【位置情報を再取得】
【対象地点:未登録】
【警告:記憶・記録の不一致】
「記憶だけじゃない。スマートフォンの記録まで……」
蓮の背筋に冷たいものが走った。
この山では、見たものだけでなく、記録そのものまで消される可能性がある。
「全員、今見たものを声に出して確認しよう」
蓮は言った。
「俺たちが何を見たか、互いに覚えておくんだ」
ミリアが頷く。
「石碑はありません。でも、蓮さんは確かに見たと話しました」
「私は、蓮さんが石碑を見つめているところを見ました」
リナも続ける。
狼王が鼻を鳴らした。
「ならば、記憶が消えても互いに確認できる」
「そういうこと」
蓮は少しだけ息をついた。
だが、次の瞬間。
セレナが首を傾げた。
「……あれ?」
「どうしました?」
「私たち、何をしに山へ来たんでしたっけ?」
全員が凍りついた。
「セレナさん?」
「ええと……北方の観光?」
「違います!」
蓮は慌てて説明した。
「境界の異常を調べに来たんです!」
「境界……?」
セレナは眉を寄せた。
その表情から、冗談ではないことが分かった。
「本当に、思い出せないんですか?」
ミリアが魔力を調べる。
「セレナさんの記憶に、何かが干渉しています……!」
狼王が低く唸った。
「この山そのものが、侵入者の記憶を奪っているのか」
蓮はセレナの肩をつかんだ。
「セレナさん。俺は佐伯蓮です。あなたは商業組合のセレナさん。俺たちは境界の異常を調べに来ました」
「佐伯……蓮……」
セレナはゆっくりと繰り返した。
「そう……でしたね」
彼女の瞳に、少しずつ光が戻る。
「思い出しました。蓮様をお守りするために来たんです」
「そこは忘れないんですね……」
「妻として当然です♡」
「戻るの早いな!」
少しだけ笑いが起きた。
しかし、蓮は笑いながらも確信していた。
この山に長く留まるのは危険だ。
◇
さらに進むと、山肌に大きな洞窟が現れた。
入口には、古びた荷車が放置されている。
そのそばに、一人の男が座り込んでいた。
厚い外套。
震える手。
焦点の合わない目。
「……誰か、いるのか」
男が弱々しく顔を上げた。
蓮は駆け寄った。
「大丈夫ですか?」
「……商人か?」
「そうです。あなたは?」
男はしばらく考え込んだ。
「俺は……」
額を押さえる。
「俺は、何をしに来たんだ?」
蓮たちは顔を見合わせた。
ヴェルティアが話していた、記憶を失って山から戻った商人。
この男に違いない。
ミリアが水を渡す。
「ゆっくり飲んでください」
男は一口飲んだ。
「……ありがとう」
蓮は慎重に尋ねた。
「山の中で、何を見たんですか?」
男の顔が青ざめた。
「扉だ……」
「扉?」
「山の奥に、巨大な扉があった。そこには、俺の知らない商品が山ほど並んでいた」
「商品……?」
「金貨、宝石、魔道具……何でもあった。男が言ったんだ」
男は震えながら続けた。
「好きなだけ持っていけ、と」
蓮は息を止めた。
「その男は、黒い外套を着ていましたか?」
「……ああ」
「佐伯家の紋章を持っていた?」
男はゆっくり頷いた。
「黒い紋章だ。あいつは、こう言った」
男は顔を上げた。
「『欲しいものをすべて手に入れろ。境界のことなど気にするな』と」
蓮は拳を握りしめた。
やはり、あの男だ。
境界を使って大量の商品を流し込み、欲望を利用して交易を支配しようとしている。
「それで、あなたはどうなったんですか?」
「俺は……商品を持ち帰ろうとした」
男は目を伏せた。
「もっと稼げると思った。もっと金が欲しいと思った。気づいたときには、帰り道が分からなくなっていた」
「……」
「何日も歩いた気がする。でも、実際には数時間しか経っていなかったらしい」
時間まで狂っているのか。
蓮はスマートフォンを確認した。
【時間変動反応】
【境界干渉:強】
【注意:滞在時間の保証なし】
「まずいな……」
ここにいるだけで、記憶だけでなく時間まで失う可能性がある。
蓮は決断した。
「俺たちは、ここから先へ進む」
ミリアが驚く。
「蓮さん、危険です!」
「分かってる。でも、あの扉を放置したら、もっと多くの人が被害に遭う」
蓮は男に保存食と水を渡した。
「あなたは街へ戻って、ヴェルティアさんの商会を訪ねてください。俺たちがここに来たことを伝えてほしい」
「……分かった」
男は蓮の手を握った。
「気をつけろ。あの扉の向こうには……」
その先は、声にならなかった。
男は苦しそうに額を押さえた。
「……すまない。もう、思い出せない」
蓮は静かに頷いた。
「十分です。ありがとうございました」
◇
洞窟の奥へ進む。
壁には、古い文字が刻まれていた。
リナが灯りを近づける。
「これは……佐伯家の古い記録と似ています」
蓮は文字を読み取った。
『第一境界は、物を運ぶためだけに開かれたのではない』
『二つの世界が、互いに必要とするものを知るために開かれた』
『しかし、すべてを欲する者が現れたとき、扉は災いとなる』
その下には、別の文字があった。
『封印を解くには、佐伯の血と、最初の鍵が必要である』
蓮はポケットの鍵を握った。
「この鍵……」
スマートフォンが鳴る。
【第一境界の封印を確認】
【鍵:適合】
【血統反応:適合】
【注意:封印解除は不可逆の可能性あり】
「不可逆……?」
ミリアが画面を覗き込む。
「一度開けたら、閉じられないということですか?」
「分からない。でも、簡単に開けていい扉じゃない」
そのとき。
洞窟の最奥から、低い音が響いた。
ゴゴゴゴ……。
壁が震える。
雪が天井から落ちてくる。
そして、闇の中に巨大な扉が姿を現した。
扉の中央には、佐伯家の紋章。
その片側は本来の色。
もう片側は、黒く塗りつぶされていた。
蓮は息をのんだ。
「これが……第一境界」
扉の向こうから、声が響いた。
『ようやく来たか』
『佐伯の血を引く者よ』
蓮は一歩前に出た。
「お前は誰だ!」
しばらく沈黙が続いた。
そして、扉の向こうの声が答えた。
『私は、佐伯景真』
『かつて、境界を守る役目を与えられた者』
蓮の目が見開かれる。
「景真……!」
ヴェルティアの帳簿に記されていた名前。
佐伯家の交易監査役。
記録から消えた人物。
『お前は、私の子孫ではない』
景真の声が続いた。
『だが、私と同じ血を引いている』
『だからこそ、お前に選ばせよう』
扉の表面に、二つの光が浮かび上がった。
一つは、世界をつなぐ青い光。
もう一つは、すべてを飲み込む黒い光。
『必要なものだけを運ぶ世界か』
『すべてを手に入れられる世界か』
『佐伯蓮。お前は、どちらを選ぶ?』
蓮は鍵を握りしめた。
「……俺は」
答えようとした、その瞬間。
スマートフォンの画面が真っ赤に染まった。
【緊急警告】
【第一境界の封印が自動解除を開始】
【残り時間――不明】
狼王が牙をむいた。
「蓮! 扉から離れろ!」
だが、もう遅かった。
扉の隙間から、黒い霧があふれ出す。
ミリアが魔法を放つ。
リナが地面に防御陣を描く。
セレナが蓮の腕をつかんだ。
「蓮様! 戻りましょう!」
蓮は扉を見つめた。
この扉を開けば、佐伯家の秘密が分かるかもしれない。
だが同時に、世界中の境界が壊れるかもしれない。
そして――
扉の向こうから、景真の声が最後に響いた。
『急げ、蓮』
『お前が選ばなければ、誰かが代わりに選ぶ』
次の瞬間。
洞窟全体が、黒い光に包まれた。




