第43話 バルト編――信用値マイナス999からの再出発!
「……マイナス999か」
バルトは、商業連盟から渡された書類を見つめていた。
不正な記録の訂正は始まった。
自分が行っていない違反についても、再審査が認められた。
それでも、画面に表示された数字は変わっていなかった。
【バルト】
【信用値:−999】
【取引制限:継続中】
【信用回復:審査中】
「……何も変わっていないじゃないか」
バルトが苦笑した。
俺は隣から画面を覗き込んだ。
「訂正手続きが始まったばかりだからな。すぐに数字が変わるわけじゃないんだろ」
「分かっている。だが、これでは新しい取引も難しい」
信用値がマイナス999。
この世界では、商人にとって致命的な数字だった。
商品を仕入れようとしても断られる。
荷物を運ぼうとしても保証金を要求される。
新しい取引を申し込んでも、相手に信用してもらえない。
どれだけ真面目に働こうとしても、最初から疑われてしまうのだ。
「蓮」
バルトが俺を見た。
「俺は、どうすればいい?」
俺は少し考えてから答えた。
「数字をいきなり戻そうとするのは、やめよう」
「何?」
「マイナス999をゼロにすることだけ考えても、相手から信用されなかったら意味がない」
俺は机の上に、一枚の紙を置いた。
「まずは、一件の取引を成功させよう」
◇
「一件だけで、何が変わる?」
バルトは納得できない様子だった。
「信用値を戻すには、何十件、何百件も取引しなければならないかもしれないぞ」
「そうかもしれない」
俺は頷いた。
「でも、最初の一件がなければ、二件目もないだろ?」
ガルドが帳簿を開いた。
「蓮の言うとおりだ。大きな取引を狙う必要はない。失敗しても被害が小さく、納品したことを確実に証明できる取引から始める」
「具体的には?」
「保存食を十箱。納品先と数量を契約書に明記する。納品時には相手の受領署名をもらう。代金の支払いも記録する」
ガルドは、必要な項目を紙に書き出した。
「口約束はなし。納品日時も明確にする。問題が発生したら、すぐに連絡する」
「……ずいぶん細かいな」
「信用値マイナス999の商人が、曖昧な契約をしてどうする」
「ぐっ……」
バルトが言葉に詰まった。
俺は笑った。
「でも、それなら誰が見ても取引の結果が分かる。信用値を操作されたとしても、記録が残る」
「なるほど……」
バルトは契約書を手に取った。
「よし。やってみよう」
◇
翌朝。
俺たちは黒曜港の市場へ向かった。
バルトが探していたのは、保存食を必要としている小さな宿だった。
港で働く荷運び人や船員が多く利用する宿だ。
店主は、バルトを見ると警戒した。
「……あんたがバルトか?」
「そうだ」
「信用値がマイナス999だと聞いたぞ」
「事実だ。ただし、不正な記録については再審査中だ」
店主は腕を組んだ。
「それで、何を売りに来た?」
「保存食を十箱。今日の午後までに届ける。数量と品質に問題があれば、契約に従って対応する」
「十箱か……」
店主はしばらく考えた。
「悪いが、最初からあんたを信用することはできない」
バルトは静かに頷いた。
「当然だ」
「それでも取引したいのか?」
「ああ。信用してくれとは言わない。まずは、約束を守らせてくれ」
店主は、少しだけ表情を変えた。
やがて契約書を受け取った。
「分かった。十箱だけだ。納品が遅れたら、その理由を説明してもらう」
「承知した」
バルトは、しっかりと署名した。
たった十箱。
それだけの取引だった。
だが、バルトにとっては、商人としての再出発をかけた大切な一件だった。
◇
ところが、問題が起きた。
昼過ぎ。
倉庫から保存食を運び出そうとしたバルトが、険しい顔で戻ってきた。
「蓮、まずいことになった」
「どうした?」
「予定していた保存食が、六箱しかそろわない」
「えっ?」
ガルドが帳簿を確認する。
「仕入れ先の記録では十箱あるはずだぞ」
「実際には四箱が別の注文に回されていた。連絡が遅れていたらしい」
俺は頭を抱えた。
「納品期限は?」
「今日の午後だ」
「間に合わないのか?」
「六箱なら間に合う。だが、契約は十箱だ」
バルトは唇をかんだ。
「以前の俺なら、何とか十箱そろえようとして、別の契約を無理に変更していたかもしれない」
「今回はどうする?」
俺が尋ねると、バルトはすぐに答えた。
「店主に事情を説明する。六箱だけ先に納品するか、残り四箱をいつ届けるか、相手に選んでもらう」
「それでいい」
ガルドも頷いた。
「勝手に納品先を変えたり、黙って数量を減らしたりするな。それが今回の教訓だ」
バルトはすぐに宿へ向かった。
◇
「予定どおり十箱を届けられなくなった」
バルトは店主に事情を説明した。
「申し訳ない。こちらの仕入れ管理にも確認不足があった。まず六箱を届け、残り四箱は明日の午前中までに納品したい」
店主は不機嫌そうに眉を寄せた。
「明日の朝までに、本当に届くんだろうな?」
「仕入れ先に確認したうえで、契約書に納品期限を明記する。守れなければ、契約に定めた対応を取る」
「……分かった」
店主は少し考えたあと、契約書に追記した。
「六箱は今日受け取る。残りは明日の午前中だ。これでどうだ?」
「ありがとうございます。必ず届ける」
バルトは頭を下げた。
俺は、そのやり取りを見ていた。
以前のバルトなら、約束を守れないことを恐れて、無理をしていたかもしれない。
だが今は違う。
問題を隠さず、相手に説明し、双方が納得できる方法を選んでいる。
それが、信用を積み直すということなのだ。
◇
翌朝。
バルトは、残りの保存食四箱を宿へ届けた。
店主は納品数を確認し、受領書に署名した。
「……確かに受け取った」
「ありがとうございます」
バルトは契約書と受領書を、丁寧に帳簿へしまった。
そのとき、俺のスマートフォンが鳴った。
【取引記録を確認】
【契約数量:10箱】
【納品数量:10箱】
【納品記録:確認済み】
【受領署名:確認済み】
【取引評価:審査中】
「バルト、記録が登録されたぞ!」
「本当か?」
バルトが画面を覗き込む。
しかし――。
【信用値:−999】
数字は変わっていなかった。
バルトの顔から、笑みが消えた。
「……一件成功させても、変わらないのか」
俺はスマートフォンを見直した。
「いや、ちょっと待て。取引の記録は認められている。でも信用値の再計算は、まだ終わっていないんだ」
ガルドも頷いた。
「不正記録の訂正と、新しい取引の評価は別の処理だ。今すぐ数字が変わらなくても、取引実績そのものは残る」
「そうか……」
バルトは画面を見つめた。
「なら、続けるしかないな」
そのときだった。
宿の店主が、俺たちのところへやってきた。
「バルト」
「はい」
「昨日の説明は、悪くなかった。問題が起きたとき、隠さずに話してくれたからな」
店主は受領書の控えを差し出した。
「次は、保存食を二十箱お願いしたい。今度も契約書を作ってくれ」
バルトが目を見開いた。
「……二十箱?」
「ああ。いきなり大きな取引を任せるつもりはない。だが、次も約束を守るなら、少しずつ増やしていこう」
バルトは深く頭を下げた。
「ありがとうございます。次も、必ず責任を持って届けます」
◇
その日の午後。
俺たちは商業連盟へ、納品記録と受領書を提出した。
担当者は書類を確認し、正式な取引実績として登録した。
そして、数分後。
スマートフォンに新しい通知が届いた。
【信用値の再計算】
【不正記録:訂正処理中】
【新規取引:1件確認】
【取引実績:登録済み】
【信用値:−999】
「……まだマイナス999か」
バルトが苦笑した。
だが、今回は落ち込まなかった。
「数字が戻るまで、取引を続ける。俺がやるべきことは、それだけだ」
俺は頷いた。
「そうだな。でも、もう一つ大事なことがある」
「何だ?」
「バルトだけが頑張っても、不正記録の訂正が進まなければ、正しい評価は受けられない。原本の調査も並行して続けよう」
「分かっている」
バルトは、帳簿を抱え直した。
「自分の責任は自分で取る。不正については、証拠を出して正してもらう。そして、新しい信用は取引で積み上げる」
その言葉を聞いて、俺は笑った。
「よし。それがバルトの再出発だ」
◇
夕方。
俺たちは港の市場を歩いていた。
バルトの信用値は、まだマイナス999。
けれど、以前とは少し違っていた。
新しい取引が一件成立した。
次の注文も入った。
不正記録の訂正手続きも進んでいる。
すべてが解決したわけではない。
それでも、前へ進んでいる。
「蓮」
バルトが言った。
「俺は、信用値をゼロに戻すことだけを目標にするつもりはない」
「ほう?」
「まずは、契約を守る。相手に説明する。問題が起きたら逃げずに対応する。その結果として数字が戻るなら、それでいい」
俺は笑った。
「やっと商人らしいことを言ったな」
「最初から商人だ!」
「信用値マイナス999の商人だけどな」
「お前な!」
バルトが怒鳴り、俺たちは笑った。
そのとき、スマートフォンが鳴った。
【信用回復プログラム】
【新規取引実績:1件】
【次回評価:複数取引の確認後】
【不正記録の再審査:継続中】
【信用値:−999】
俺は画面を閉じた。
数字が変わるには、まだ時間がかかるだろう。
けれど、バルトにはもう、最初の一歩がある。
マイナス999から始める商売。
それは簡単な道ではない。
それでも――。
「次は二十箱だな」
俺が言うと、バルトは力強く頷いた。
「ああ。今度も必ず届ける」
バルトの商人としての再出発は、始まったばかりだった。




