第42話 海図に隠された秘密――
商人からの手紙
「……これ、本当に地図なのか?」
蓮は、テーブルの上に広げられた古い海図を見つめていた。
北方海域。
その先には、通常の地図には存在しない島が描かれている。
島の中央には、黒い円。
そこから一本の線が伸び、その周囲に細かな光のような模様が刻まれていた。
「何度見ても、不思議な印ですね」
ミリアが地図を覗き込む。
「境界の始点で見たものと似ているわ」
リナが静かに言った。
「この印……ただの目印ではありません。地図そのものが、何かを隠しているように感じます」
「地図が何かを隠す?」
蓮は首を傾げた。
そのときだった。
「ぷりん!」
テーブルの端から、モモが飛び出してきた。
「モモ、今は大事な話を……」
「ぷりん!」
「分かった、あとでな」
「ぷりん!」
「……二個?」
モモは満足そうに羽を震わせた。
「交渉成立だ!」
「いや、何の交渉だよ!」
セレナが笑いながら、蓮の隣に座る。
「蓮様、モモちゃんとの交渉までお上手なのですね。さすが、私の未来の旦那様です♡」
「その話はしてない!」
「では、結婚後の商談ということで♡」
「結婚後も何も、まだ結婚してないから!」
狼王が呆れたように鼻を鳴らした。
「人間は、なぜこうも話が長いのだ」
「狼王、今のはセレナさんが原因だからな」
「どちらでもよい」
「よくない!」
いつもの騒がしいやり取り。
けれど、蓮の視線はすぐに海図へ戻った。
この地図は、バルトが持ってきたものだ。
何年も前、北方海域を航海した商人から譲り受けたという。
その商人は、地図に描かれた島へ近づいたとき、羅針盤が狂い、船の位置を見失った。
結局、上陸を諦めて引き返したらしい。
そして、二度とその海域には近づかなかった。
「普通の島なら、ここまで警戒する必要はないよな……」
蓮はスマートフォンを取り出した。
画面には、以前から消えずに残っている表示があった。
【第八接続候補】
【目的地:北方海域・未登録区域】
【境界反応:強】
【通常転移:制限される可能性あり】
さらに、その下には新しい警告が表示されていた。
【注意】
【接続地点の消失を検知した場合、帰還経路を再構築できない可能性があります】
蓮は息を吐いた。
「つまり、行ったら帰ってこられない可能性もあるってことか」
「はい」
リナが頷く。
「でも、何もせずに放っておけば、もっと危険になるかもしれません」
「どういうことだ?」
リナは地図の黒い印を指差した。
「この反応、少しずつ強くなっています。まるで、こちらが近づくのを待っているみたいに」
その場の空気が変わった。
蓮は海図を見つめた。
商売のために未知の土地を訪れることは、これまでもあった。
しかし、今回の相手は普通の商人でも、魔物でもない。
世界と世界をつなぐ境界そのものかもしれないのだ。
「……まずは、航海の準備を徹底しよう」
蓮は帳簿を開いた。
「食料、水、薬、予備の道具。船の修理用品も必要だ。何が起きても、最低限の生活ができるようにする」
「蓮様らしいですね」
セレナが微笑む。
「危険な冒険に行く前に、仕入れの計算ですか?」
「生きて帰るためだよ。食料がなければ、どんな強い冒険者だって困るだろ」
「素敵です♡」
「どこが?」
「現実的なところです♡」
「……もういいです」
◇
その日の夕方。
蓮は港の倉庫で、航海用品の確認をしていた。
保存食。
飲料水。
毛布。
予備の帆布。
工具。
それから、異世界でも使えるように調整した照明器具。
一つずつ確認し、帳簿に印をつけていく。
「よし。これで大体そろったな」
「蓮様!」
セレナが小走りでやってきた。
「こちらを見てください」
彼女が差し出したのは、古い紙片だった。
「これは?」
「港の古物商が持っていたものです。海図の印を見せたら、似た模様の紙を持っていると言っていました」
蓮は紙片を受け取った。
黄ばんだ紙。
端は焼け焦げている。
そして、中央には見覚えのある紋章があった。
佐伯家の紋章。
「……どうして、これがここに?」
蓮の声が低くなった。
紙片の裏には、かすれた文字が残されていた。
『境界を開く者へ』
『商人であることを忘れるな』
『世界をつなぐ力は、世界を壊す力にもなる』
蓮は指先で文字をなぞった。
「この字……」
「読めるのですか?」
「日本語だ」
蓮は顔を上げた。
「しかも、かなり古い書き方だけど……」
続きは破れていた。
紙片の端に、小さく日付のような数字がある。
そして、その横に一つの名前。
――一郎。
蓮は息を止めた。
佐伯家の初代当主。
最初に境界を守ったとされる男。
その名前が、なぜ北方海域に関係するのか。
「やっぱり、ここには佐伯家の秘密があるんだ」
蓮は紙片を大切にしまった。
そのとき、倉庫の入口から声がした。
「見つけたのね」
黒い外套。
長い黒髪。
紅い瞳。
ヴェルティアだった。
「ヴェルティア!」
セレナの表情が一瞬で変わる。
「……どうしてあなたがここに?」
「調査よ」
ヴェルティアは平然と答えた。
「あなたたちが北方海域へ向かうと聞いたから、先に調べておこうと思って」
「一人で?」
蓮が尋ねる。
「ええ。私なら、多少の危険はどうにかできるもの」
「いや、そういう問題じゃ……」
「心配してくれるの?」
ヴェルティアが微笑む。
「嬉しいわ、蓮」
「いや、心配というか……」
セレナが蓮の腕に抱きついた。
「蓮様は私が守りますので、ご心配なく♡」
「あなたに任せて、蓮が危険な目に遭ったらどうするの?」
「それは……」
セレナの笑顔が固まった。
「蓮様を守るためなら、私も命を懸けます!」
「命を懸ける前に、まず落ち着いてください!」
蓮は二人の間に入った。
「今は喧嘩している場合じゃない。ヴェルティア、何か分かったのか?」
ヴェルティアの表情が変わった。
「ええ。あの島には、約八百年前に消えた商人の記録が残されている可能性があるわ」
「八百年前……」
「その商人は、世界の境界を行き来していた。そして、ある町を黒い霧から守ろうとして姿を消した」
蓮は思わず紙片を握りしめた。
ヴェルティアは、その手元を見た。
「その紙は?」
「佐伯家の紋章があった。初代当主の名前も」
ヴェルティアの紅い瞳がわずかに揺れた。
「……やはり、つながっていたのね」
「何を知っているんだ?」
「まだ確かなことは言えない。でも、その島に行けば分かるかもしれない」
ヴェルティアは海図を見つめた。
「ただし、気をつけて。境界の始点を探しているのは、あなたたちだけではないわ」
「黒薔薇商会を通じて、何か分かったのか?」
「ええ。誰かが、北方海域の航路情報を買い集めている。しかも、船を出した商人たちには共通点がある」
「共通点?」
「全員、帰港したあと、その海域の記憶が曖昧になっているの」
ミリアが顔をしかめた。
「記憶が……?」
「島を見たはずなのに、形を思い出せない。誰かと話したはずなのに、相手の顔を覚えていない。中には、航海日誌の一部が白紙になっていた船もある」
「それは、記憶を操作されているということか?」
狼王が低く唸った。
「可能性はあるわ」
ヴェルティアは蓮を見た。
「だから、航海日誌は複数に記録して。紙だけではなく、あなたのスマートフォンにも残すこと。もし記憶や記録が消されても、比較できるように」
蓮は頷いた。
「分かった。出発前に対策する」
「それと、蓮」
「何だ?」
ヴェルティアは一歩近づき、静かに言った。
「もし島で、あなたの名前を呼ぶ声が聞こえても、すぐに返事をしてはいけない」
「……どうして?」
「その声が、本当にあなたを知っているとは限らないからよ」
倉庫の外で、海風が強く吹いた。
紙片がかすかに揺れる。
蓮はそこに刻まれた文字を思い出した。
『境界を開く者へ』
まるで、何百年も前から自分がここへ来ることを知っていたかのようだった。
◇
夜。
宿屋へ戻った蓮は、紙片を机の上に置いた。
モモはプリンを食べ終え、紙片の周囲をくるくると飛んでいる。
「モモ、何か気になるのか?」
「ぷり……?」
モモは紙片に近づいた。
その瞬間。
紙片の佐伯家の紋章が、淡く光った。
「えっ?」
蓮が身を乗り出す。
光は紋章から文字へと広がり、破れていた部分に新しい文字が浮かび上がった。
『最初の商人よ』
『もし、この記録を読む者が佐伯の血を継ぐなら』
『海の向こうへ来なさい』
『ただし、扉を開く前に、必ず問え』
『向こう側は、何を必要としているのか』
蓮は動けなかった。
父から何度も聞かされた言葉。
商売とは、相手が本当に必要としているものを届けること。
その教えが、八百年もの時を越えて、ここにつながっている。
スマートフォンが鳴った。
【古代記録を検出】
【佐伯家の記録との関連性:高】
【第八接続候補】
【境界の始点への手がかりを確認】
そして最後に、見たことのない表示が現れた。
【記録者:佐伯一郎】
【記録状態:未完了】
蓮はゆっくりと顔を上げた。
「一郎……。あんたは、何を見つけたんだ?」
答える者はいない。
ただ、窓の向こうに広がる夜の海だけが、静かに波打っていた。
その遠く。
誰も知らない島の地下では、古い扉が青白く輝き始めていた。
扉の前に立つ、黒い影。
その手には、蓮が持つものと同じ佐伯家の紋章が刻まれた鍵が握られていた。
影は、ゆっくりと呟いた。
「末裔が動き出したか……」
そして、扉の向こうから声が響く。
『商人を、こちらへ』
黒い影は鍵を差し込んだ。
カチリ。
八百年の沈黙が、今、終わろうとしていた。




