第8話「戻らない足音」
人は、いつか別れる。
約束があっても。
言葉を交わしていても。
昨日まで隣にいても。
朝になれば、もう居ないことがある。
残るのは声ではなく。
温度でもなく。
ただ、その人が確かに居たという小さな痕跡。
それでも旅は続く。
火は消えない。
足は止まらない。
これは、戻らないものと出会う日の話。
朝はまだ薄暗かった。
焚火の灰から白い煙が細く上がっている。
アリアは毛布を畳みながら耳を澄ませた。
聞こえるはずの音がなかった。
笛の音だった。
毎朝。
出発前になると。
荷車の後ろで。
あの老人が吹いていた。
上手くもない。
派手でもない。
短い旋律。
それが今日は聞こえない。
アリアは顔を上げた。
荷車を見る。
誰もいない。
老人の姿もなかった。
昨日の夕方。
老人は車輪の軸を直していた。
アリアが水桶を運んでいると、
「重そうだな」
と笑った。
そして少しだけ持ってくれた。
その後、
笛を吹いていた。
確かにいた。
昨日まで。
アリアは周囲を見る。
「……あの」
近くで荷をまとめていた女性が振り向く。
「どうした」
「笛のおじいさんは」
女性は手を止めなかった。
「出たよ」
それだけだった。
アリアは理解できなかった。
「出た……?」
「夜のうちにね」
終わりだった。
誰も驚かない。
誰も探さない。
誰も止めない。
荷車が動く。
天幕が畳まれる。
隊列が作られる。
朝は続いていた。
まるで何も起きていないように。
歩く。
砂を踏む。
風が吹く。
アリアは何度も後ろを見る。
もしかしたら。
少し遅れているだけかもしれない。
別の道を回っているだけかもしれない。
そう思った。
昼になる。
来ない。
休憩になる。
来ない。
水を飲む。
来ない。
夕方になる。
来ない。
笛は聞こえない。
その不在だけがずっと残った。
夜。
焚火。
肉の焼ける匂い。
火の爆ぜる音。
アリアは黙って座っていた。
隣には真白がいる。
火が揺れる。
長い沈黙。
アリアは言った。
「探さなくていいんですか」
真白は火を見たままだった。
「何をだ」
「……あの人です」
しばらく返事はない。
風だけが通る。
やがて真白は言った。
「お前はどうしたい」
アリアは俯く。
探したい。
そう思う。
でも。
探して見つかったら何を言うのだろう。
戻ってきてほしいのか。
ただ居なくなってほしくなかったのか。
分からない。
何も分からない。
「……分かりません」
真白は頷きもしなかった。
慰めもしない。
教えもしない。
火だけを見ていた。
アリアも火を見る。
赤い火。
揺れる火。
その色を見ていると、
ふと昔の焚火を思い出した。
小さな火。
白い布。
痩せた手。
優しい声。
――あなたは、間違わないでね。
胸の奥が少し痛んだ。
エレナも。
戻らなかった。
老人も。
戻らないのだろうか。
アリアは火を見続けた。
答えは出なかった。
翌朝。
出発準備。
老人が使っていた工具箱を別の男が持っていた。
荷車を引く役目も変わっている。
空いた場所は埋まっていた。
誰も忘れていない。
でも止まってもいない。
旅は続いていた。
昼過ぎ。
荷車の影に小さなものが落ちていた。
木笛だった。
使い込まれている。
端が少し欠けている。
老人の笛だった。
アリアは拾う。
軽い。
少しだけ温かい気がした。
持つか。
置くか。
返せるかもしれない。
返せないかもしれない。
アリアはしばらく考えた。
それから荷物へしまった。
誰にも言わなかった。
夕方。
隊列は丘を越える。
風が強い。
アリアは足を止めた。
振り返る。
遠くまで続く荒野。
誰もいない。
笛も聞こえない。
足音もない。
アリアは木笛を取り出した。
両手で握る。
待つ。
少しだけ。
本当に少しだけ。
待った。
風が吹く。
草が揺れる。
空が赤い。
誰も来ない。
笛も聞こえない。
アリアはもう一度だけ遠くを見る。
来ない。
その事実だけが静かに残った。
胸が少し痛い。
寂しい。
嫌だった。
戻ってきてほしかった。
でも。
来ない。
アリアは木笛を荷物へ戻した。
そして前を見る。
隊列は進んでいる。
火も。
人も。
旅も。
続いている。
アリアは小さく息を吐いた。
「……分かりません」
風が声をさらう。
それでも続けた。
「でも」
少しだけ間を置く。
「行きます」
歩き出す。
砂が鳴る。
戻らない足音はある。
戻らない人もいる。
戻らない時間もある。
それでも。
足を止める理由にはならなかった。
アリアは前を向いて歩いた。
夕陽の中を。
続いていく旅の中を。
自分の足で。
夜。
焚火。
アリアは荷物の中の木笛に触れる。
吹かない。
ただ持つ。
火が揺れる。
誰かが笑う。
誰かが歌う。
旅は続いている。
失われても。
残された者も。
それでも続いていく。
アリアは静かに火を見つめた。
その赤い光の向こうに、
もう戻らないものを抱いたまま。
第8話「戻らない足音」了
風は何も連れて来なかった。
待っていても。
振り返っても。
呼んでみても。
戻らないものはある。
けれど。
戻らないから消えるわけではない。
残された火は残る。
渡されたものは残る。
共に歩いた時間も残る。
だから人は進める。
失ったものを置いていくのではなく。
抱えたまま。
その先へ。




