第7話「こぼれた水」
水は戻らない。
こぼれたものも。
言わなかった言葉も。
けれど。
残るものは失った量だけではない。
誰かと繋がった重さもまた、
静かに残っていく。
朝の空気は冷たかった。
天幕の隙間から差し込む光が、
まだ白い。
アリアは木桶を抱えて歩いていた。
昨日から任されるようになった仕事。
水汲み。
大人たちに混じれば小さな仕事だった。
それでも。
自分に渡された役割だった。
岩場の水場は静かだった。
浅い水面に空が映る。
桶を沈める。
冷たい水が音を立てた。
両腕に重さが乗る。
アリアは立ち上がった。
慎重に歩く。
戻る途中だった。
足元の石が動く。
身体が揺れる。
桶が傾く。
水が飛ぶ。
ばしゃり、と。
冷たい飛沫が頬にかかった。
アリアは固まる。
桶を見る。
半分近く減っていた。
濡れた地面へ、
水は吸い込まれていく。
風が吹く。
もう戻らない。
胸が小さく痛んだ。
周囲を見る。
誰もいない。
少なくとも近くには。
桶にはまだ水が残っている。
運べる。
言わなければ分からないかもしれない。
そう思った。
その時だった。
遠くの岩陰に黒い影が見えた。
白鷺真白。
立っている。
こちらを見ている。
何も言わない。
近付いてもこない。
助けにも来ない。
ただ見ている。
アリアは視線を逸らした。
桶を抱え直す。
そして歩いた。
昼。
配給の準備が始まる。
老女が桶を受け取った。
中を見る。
少しだけ眉が動く。
それだけだった。
アリアの喉が乾く。
今ならまだ黙れる。
誰も知らない。
知らないまま終わるかもしれない。
けれど。
桶を握る手に力が入った。
「……減りました」
老女が顔を上げる。
「私がこぼしました」
静かだった。
風だけが通る。
誰も責めない。
誰も急がせない。
しばらくして老女は頷いた。
「そうかい」
それだけだった。
怒られない。
叱られない。
だから安心した。
そう思った。
だが違った。
昼食の時だった。
鍋を配る男が声を上げる。
「今日は少し薄いぞ」
笑い声が返る。
「明日には戻るさ」
別の男が肩を竦める。
誰かが顔を洗おうとして、
手を止める。
水瓶の蓋を閉める。
荷管理役が帳面を書き直している。
予備の水袋が一つ開かれる。
誰も怒らない。
誰も責めない。
けれど。
確かに何かが変わっていた。
アリアはそれを見ていた。
自分がこぼした水の形を。
夜。
焚火が揺れていた。
革の匂い。
湯気。
荷獣の寝息。
誰かの笑い声。
共同体はいつも通りだった。
止まっていない。
続いている。
アリアは火を見ていた。
少し離れた場所で、
真白も火を見ている。
黒い外套が火に照らされる。
「……」
言葉は出なかった。
真白も何も言わない。
火だけが鳴る。
昼に顔を洗えなかった男。
薄くなったスープ。
開かれた予備水袋。
それらが順番に浮かぶ。
怒られなかった。
けれど。
何もなかったわけではない。
アリアは膝の上で手を握った。
小さな手だった。
明日は落とさない。
そう思った。
風が吹く。
焚火が揺れる。
それでも火は消えなかった。
第7話「こぼれた水」了
失敗は消えない。
けれど。
失敗した人もまた、
消えない。
火のそばには席が残る。
明日もまた、
選ぶために。




