第25話「旅立つ者」
好きな場所を離れることは、
そこを捨てることではない。
置いていくものがあり、
持っていくものがあり、
まだ使い道の分からないものもある。
それでも足を止めないなら。
旅立ちは、別れではなく、
次の形を選び始めることなのかもしれない。
朝、アリアは昨日繋いだ線を持ち上げた。
外れてはいない。
変換器も、押せばわずかに揺れるだけで、取り付けた場所に収まっている。
それでも、何も動かなかった。
布の上に置いた球体も静かなままだった。
腹部の奥に掛けた灯りだけが、細い配線を照らしている。
「次、どこ?」
返事がない。
アリアは外へ顔を出した。
ジンは機体ではなく、作業場を見ていた。
木を組んだ台。
小さな吊具。
擦り減った工具。
荷車の軸を削るための作業機。
「ジン」
「ここじゃ無理だ」
「何が?」
ジンは腰部の接続部を叩いた。
「外せる。削れる。繋ぐこともできる」
残った脚を見る。
「でも、立たせられん」
アリアも周囲を見た。
横たわった機体だけが、作業場から大きくはみ出していた。
「じゃあ、どこならできるの?」
ジンはSKY-RIGの収納部を開けた。
折り畳まれた紙を出し、木箱の上へ広げる。
指が一本の線を辿った。
「シルフ=レイ」
「浮いてる街?」
「ああ」
「そこなら立たせられる?」
「場所はある」
「部品も?」
「あるものはある」
「ないものは?」
「行く途中で拾う」
ジンは紙を畳んだ。
アリアは機体を見る。
頭はない。
腕もない。
残った脚も、自分の重さを支えられない。
「これは?」
「持っていく」
アリアはSKY-RIGを見た。
「飛べないよ」
「飛ばさん」
「歩けない」
「引く」
「全部?」
ジンは機体の側面を蹴った。
鈍い音が返った。
「全部は重い」
アリアを見る。
「どれを持っていく」
アリアは地面に積まれた部品の前へしゃがんだ。
一つ持ち上げる。
重い。
裏返す。
繋がる場所は、もう残っていなかった。
「これは?」
「使い道はない」
「REGULUSのだよ」
「だから重い」
アリアはしばらく持っていた。
やがて、機体の横へ置いた。
「置いていく」
ジンは何も言わない。
次の部品を指す。
「それは?」
内部の骨組みだった。
アリアは両手で持ち上げる。
「持っていく」
「何に使う」
「まだ分からない」
「なら載せろ」
昼までに、機体はさらに細くなった。
装甲を外す。
潰れた管を抜く。
割れた部品を落とす。
残すものは運搬台のそばへ。
置いていくものは、その反対へ。
最後に、大きな装甲が一枚残った。
表面に、削れた識別刻印がある。
アリアはそこへ手を置いた。
指先で傷をなぞる。
工具を掛けた。
固い。
両手で押す。
一つ外れた。
もう一つ。
装甲が傾く。
アリアは手を離した。
重い音を立てて、地面へ落ちた。
ジンが見る。
「それ、戻せんぞ」
「うん」
「いいのか」
アリアは工具を置いた。
「重いから」
ジンは装甲を端へ引きずった。
アリアは剥き出しになった内部を見た。
「次は?」
「運ぶ」
荷車を二台並べた。
車台を外し、太い材で繋ぐ。
ジンはSKY-RIGの予備部品から牽引用の金具を作った。
アリアは縄を通した。
引く。
緩んだ。
結び直す。
また緩む。
「違う」
ジンが外した。
「見てろ」
縄が重なる。
締まる。
手を離しても戻らない。
アリアは反対側へ回った。
同じように結ぶ。
引いた。
今度は動かなかった。
「これ?」
「ああ」
アリアは余った縄を切った。
球体は腹部から外した。
布を何枚も巻き、空にした工具箱へ入れる。
アリアは箱を持ち上げ、腹部へ戻そうとした。
「そこじゃ壊れる」
「でも、ここにあった」
「今は揺れる」
アリアは止まった。
球体を見る。
腹部を見る。
箱を運搬台の中央へ置いた。
縄を二本掛ける。
強く引いた。
箱は動かなかった。
真白は井戸のそばにいた。
壊れた器を手に、留め具を直している。
「師匠」
真白が顔を上げる。
「どうした?」
「シルフ=レイに行く」
「ああ」
「戻らない」
真白の手が止まった。
「決めたのか?」
「うん」
真白は器を待っていた子供へ返した。
子供が抱えて走っていく。
「なら、準備をしよう」
アリアはその背中を見た。
「一緒に来る?」
真白が振り返る。
「ああ」
「いいの?」
「僕は、君と行く」
真白は水袋を拾った。
アリアも自分の荷物をまとめた。
水。
乾いた食料。
寝るための布。
工具。
大きな工具を一本入れる。
もう一本。
持ち上げる。
重い。
二本目を戻した。
母から残った小さな道具は布で包む。
灰剣も包み、荷物の奥へ入れた。
ガレスが運搬台の縄を引いた。
「緩い」
アリアが締め直す。
「これで?」
「引け」
両手で引く。
動かない。
ガレスがもう一度確かめた。
「それなら持つ」
アリアは壁に立ててあった木剣を取った。
ガレスへ差し出す。
「置いていく」
ガレスは受け取った。
「戻らないんだろ」
「うん」
木剣を一度見て、肩へ担ぐ。
「なら、次は自分で作れ」
「うん」
商隊の子が走ってきた。
手の中に、曲がった留め金がある。
「いる?」
アリアは受け取った。
「使える?」
「分からない」
「じゃあ、いらない?」
アリアは小袋へ入れた。
「使う場所を探す」
「そっか」
少しだけ黙る。
「元気で」
「そっちも」
その夜、アリアは寝床へ戻らなかった。
運搬台のそばの砂を均す。
布を敷く。
横になると、機体の骨組みが暗い空を切っていた。
風が吹くたび、固定した縄が小さく軋む。
「師匠」
少し離れたところで、真白が顔を上げた。
「何だ?」
「ここ、好きだった」
「ああ」
アリアは空を見た。
「でも行く」
少し間があった。
「そうか」
アリアは目を閉じた。
夜明け前。
火が消された。
水袋が積まれた。
最後の縄が締められる。
ジンのSKY-RIGが立ち上がった。
背部の推進器は動かない。
牽引索が繋がる。
金具が張った。
SKY-RIGが一歩進む。
運搬台は動かなかった。
もう一歩。
車輪が砂へ沈む。
「押せ」
アリアと真白が後ろへ回った。
木枠へ手を掛ける。
押す。
足が滑った。
アリアは踏み直す。
「もう一回」
SKY-RIGが前へ出る。
真白が押す。
アリアも押した。
車輪が砂の縁を越えた。
ぎ、と長い音がした。
運搬台が動く。
横たわった機体も動いた。
集落の外まで来たところで、SKY-RIGが止まった。
ジンが振り返る。
「今なら戻せる」
アリアも振り返った。
作業場が見える。
ガレスがいる。
友人もいる。
朝の煙が上がっている。
アリアは運搬台へ手を置いた。
冷たい。
「止めない」
ジンは前を向いた。
SKY-RIGが歩き出す。
真白も続く。
アリアは一度だけ、集落へ頭を下げた。
前を向いた。
歩いた。
やがて、煙が見えなくなった。
昼前。
運搬台が大きく傾いた。
「止まれ!」
ジンの声。
片側の車輪が砂へ沈んでいる。
アリアは駆け寄った。
軸が曲がっていた。
工具箱を開ける。
使えそうなものを探す。
ない。
ジンが車輪の下へ手を入れた。
「このままじゃ折れる」
周囲を見る。
岩。
砂。
倒れた古い標識。
それだけだった。
ジンが立ち上がる。
運搬台へ乗った。
機体の腰部に残した支持材を叩く。
「これなら使える」
アリアも上がった。
昨日、残したものだった。
「後で要る?」
「要る」
「他には?」
「今はない」
アリアは支持材へ触れた。
前を見る。
乾いた地平線が続いている。
後ろを見る。
集落は、もう見えない。
工具を取った。
固定具へ掛ける。
「外す」
ジンがアリアを見る。
「本体に戻せんぞ」
「今、進めない」
アリアは工具を押した。
動かない。
握り直す。
両手で押す。
短い金属音。
一本目が外れた。
次。
支持材が落ちかける。
アリアは両腕で抱えた。
重い。
地面へ降ろす。
ジンへ差し出した。
「これで直す」
ジンが受け取る。
「ああ」
車輪の横へ置く。
ジンが工具を入れた。
金属を切る音が鳴った。
アリアは支持材を押さえる。
真白が傾いた運搬台を支える。
乾いた荒野に、
金属を削る音が続いた。
第25話「旅立つ者」了
残すために、外すものがある。
進むために、
別の使い方を選ぶものがある。
失った形は戻らなくても、
手の中に残ったものまで消えるわけではない。
まだ動かないものを連れて、
まだ見えない場所へ向かう。
その一歩から、
新しい形は、静かに始まっていく。




