第19話「灰の刃」前編
刃は、誰かを選ばない。
ただ、そこに残っている。
拾う者がいる。
置いていく者がいる。
見なかったことにする者がいる。
重さは、鉄に宿るのではない。
持つと決めた手に宿る。
暗闇の底で、火は消えかけていた。
アリアは膝をついたまま、金属容器を両手で包んでいた。
指先は熱で赤くなり、皮膚の薄いところがひりついている。
それでも手を離さなかった。
隙間から見える炭火は、小さい。
息をすれば揺れる。
風が通れば弱る。
それでも、まだ赤かった。
背後の道は崩れていた。
さっきまで通ってきたはずの細い通路は、落ちた岩で塞がれている。
戻れる隙間はない。
押しても動かない。
叫んでも、声は石に吸われた。
アリアはしばらく壁に手を当てていた。
外にいるはずの人たちの声は聞こえない。
真白の足音もない。
ヴァルダの大人たちが荷車を引く音も、誰かが名前を呼ぶ声もない。
あるのは、冷たい石の匂いと、自分の呼吸だけだった。
「……進む」
言葉は小さく落ちた。
誰に向けたものでもない。
自分の足を動かすためだけの声だった。
アリアは容器を抱え直し、立ち上がる。
左膝が痛む。
額に乾いた血が張りついている。
擦りむいた手のひらに砂が入り、指を曲げるたびに細かく刺さった。
それでも歩いた。
通路は、先へ伸びていた。
まっすぐに見える。
けれど、まっすぐではなかった。
歩くたびに、足音が少し遅れて返ってくる。
カツ。
少し遅れて。
カツ。
最初は反響だと思った。
けれど、止まっても音が一つだけ残った。
カツ。
アリアは息を止める。
容器の中で、炭が小さく爆ぜた。
前を見る。
誰もいない。
後ろを見る。
崩れた岩だけがある。
もう一度、足を出す。
カツ。
今度は、音が先に鳴った。
アリアは足を止めた。
暗闇の奥で、見えない誰かが先に歩いたような音だった。
けれど、気配はない。
息もない。
影もない。
アリアは壁に手をついた。
石の表面には、細い線が刻まれていた。
まっすぐな線。
曲がる線。
途切れた線。
どれも古く、指先に砂のような感触を残す。
触れた瞬間、音が遠のいた。
自分の呼吸が消えた。
炭火の爆ぜる音も消えた。
痛みだけが残った。
アリアはすぐに手を離す。
音が戻る。
荒い息。
小さな火。
遠くで石が落ちる音。
彼女は手のひらを見た。
何もついていない。
もう一度触れるか。
触れないか。
少しだけ迷って、指を握り込む。
今は知ることではない。
ここから出ること。
火を残すこと。
アリアは先へ進んだ。
通路は広くなったり、狭くなったりした。
天井が低い場所では、容器を胸へ押し当てて身を屈める。
岩が肩を擦る。
服の端が引っ掛かる。
小さな布切れが石に残った。
拾うか。
置いていくか。
アリアは一度振り返った。
暗闇の中で、布の端だけが白く見えた。
拾わない。
布より、火を落とさないことを選んだ。
そのまま進む。
しばらくして、風が変わった。
冷たい。
けれど、外から吹く風ではない。
奥から押し出されるような風だった。
乾いているのに、どこか水の匂いがする。
足元に砂が流れていた。
ゆっくりと。
見えない傾きに従って、細い筋を作っている。
その筋を辿る。
右へ曲がったはずなのに、左の壁に自分の影が映った。
炭火の位置なら、影は反対へ伸びるはずだった。
アリアは立ち止まる。
影も止まる。
一歩進む。
影は、半歩だけ遅れて動いた。
背中が冷えた。
でも、戻る道はない。
アリアは影を見ないようにして歩いた。
やがて、通路の先が開ける。
広い空間だった。
天井は高く、闇に沈んで見えない。
柱が何本も倒れている。
床には石板が割れて散らばり、砂と灰が薄く積もっていた。
中央には何もない。
祭壇もない。
飾りもない。
誰かを迎える場所ではなかった。
ただ、奥の壁だけが立っていた。
そこに、一本の刃が刺さっていた。
灰色だった。
光らない。
錆びてもいない。
けれど新しくもない。
長い刃は欠けていた。
柄には布も革も残っていない。
握るための形だけが、かろうじて残っている。
美しくなかった。
強そうにも見えなかった。
ただ、異様に重そうだった。
アリアは近づかなかった。
まず、周囲を見た。
出口を探す。
左には崩れた柱。
右にはひび割れた壁。
奥には刃の刺さった壁。
天井から落ちた石がいくつも床を塞いでいる。
通れそうな隙間は一つだけあった。
刃のある壁の、さらに向こう。
崩れた石の間に、細い暗がりが見える。
そこへ行くには、刃の前を通らなければならなかった。
アリアは容器を抱えたまま、壁際を歩く。
刃の近くを通り過ぎる。
何も起きない。
呼ばれない。
光らない。
音もしない。
アリアは暗がりへ向かった。
細い隙間に肩を入れる。
入れない。
火を抱えたままでは通れない。
容器を置けば、身体だけなら抜けられるかもしれない。
剣も持たず、火も置いていけば、もっと簡単に通れる。
アリアは容器を床に置いた。
炭火の赤が、広い暗闇の中で小さく揺れる。
置いていくか。
持っていくか。
彼女は容器を見つめた。
この火は、誰かが渡したものだ。
自分だけのものではない。
ここまで運んできた。
消さなかった。
置いていけば早い。
でも。
アリアは容器を抱え直した。
「これは、置かない」
細い隙間には入れない。
なら、別の道を探す。
アリアは再び広間へ戻る。
灰色の刃の前を通る。
その時だった。
炭火が、ふっと弱くなった。
風はない。
息もかけていない。
赤が小さくなる。
アリアは慌てて容器を包む。
手の熱が痛みを越えていく。
指の皮膚が焼けるようだった。
それでも離さない。
しばらくして、赤が戻った。
小さく。
か細く。
けれど、戻った。
アリアは息を吐いた。
顔を上げる。
灰色の刃が、そこにある。
さっきと同じように。
何もせず。
何も言わず。
アリアは近づいた。
一歩。
もう一歩。
周囲の音が、少しずつ遠のいていく。
炭火の音。
自分の息。
布が擦れる音。
全部が遠くなる。
刃の前で立ち止まる。
柄に手を伸ばす。
触れる寸前で、止めた。
持てば、荷物になる。
火もある。
傷もある。
道も分からない。
今、余計なものを持つ余裕はない。
それに。
これは、自分のものではない。
誰のものかも分からない。
何のためのものかも分からない。
持っていいものかどうかも分からない。
アリアは手を下ろした。
一度、背を向ける。
広間を歩く。
崩れた柱を越える。
割れた石板の上を進む。
壁を探る。
床を見る。
空気の流れを探す。
出口はない。
さっきの細い隙間だけ。
アリアは戻る。
灰色の刃の前へ。
もう一度見る。
ただの古い刃にしか見えない。
けれど、ここに残っている。
誰にも持ち出されず。
捨てられず。
朽ちず。
壁に刺さったまま。
アリアは小さく息を吸った。
自分で決める。
持つか。
離れるか。
火を抱えたままでは、刃を抜けない。
容器を置く必要がある。
けれど長く置けば、火は弱る。
先に火を守るか。
刃を取るか。
アリアは膝をつき、容器を床へ置いた。
上から自分の外套を半分だけかぶせる。
空気を塞ぎすぎないように、隙間を残す。
赤はまだ見えている。
彼女は立ち上がった。
灰色の柄を握る。
冷たかった。
石の冷たさではない。
水の冷たさでもない。
長く誰にも触れられていなかったものの冷たさだった。
アリアは両手で握り直す。
引く。
動かない。
もう一度、引く。
壁の奥で、低い音がした。
石が軋む。
足元の灰が震える。
アリアは歯を食いしばる。
抜けないなら、離すか。
そう思った瞬間、肩の奥が痛んだ。
まだ何も起きていないのに、痛みだけが先に来たようだった。
アリアは手を離しかける。
火を見る。
小さな赤が揺れている。
出口はない。
戻る道もない。
この刃が必要かどうかは分からない。
でも。
ここで見なかったことにして進むのは、違う。
アリアはもう一度、柄を握った。
「……持っていく」
声は、広間に落ちた。
刃は答えない。
アリアは全身で引いた。
壁が鳴る。
灰が舞う。
古い刃が、ほんの少しだけ動いた。
その瞬間。
広間のすべての音が消えた。
後編へ続く




