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正解圏外 – The Outside of the Answer – 灰歴外伝|ヴァルダ旅記  作者: 咲凪すず


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18/29

第18話「境界の影」

影は、光の後ろに生まれる。

そう思っていた。

けれど境界では、

足より先に、

影が道を知っていることがある。

暗い通路は、ゆるやかに奥へ続いていた。

背後では、まだ遠くに声が残っている。

「奥だ!」

「逃がすな!」

岩壁にぶつかった声は、何度も形を変えて戻ってきた。

男の声にも聞こえる。

風の音にも聞こえる。

石が軋む音にも聞こえる。

アリアは振り返らなかった。

胸に抱えた金属容器の中で、小さな炭火が赤く息をしている。

隙間から漏れる熱が、指先を温めていた。

両手で抱えると、歩きにくい。

片手を空ければ、転んだ時に支えられる。

でも、火は揺れる。

アリアは一度、容器を足元に置いた。

そのまま置いていけば、もっと速く歩ける。

両手も空く。

狭い道も登れる。

追われている。

急がなければならない。

小さな赤が、暗闇の底で揺れていた。

アリアはしゃがみ直し、容器を持ち上げる。

「……持っていく」

それだけ言って、歩き出した。

足音がした。

カツ。

少し遅れて、

カツ。

アリアは止まる。

もう一歩。

カツ。

少し遅れて、

カツ。

反響だと思った。

けれど、音は後ろからではなく、前から返ってきた。

アリアは息を浅くする。

炭火の赤が、容器の隙間で揺れた。

追跡者ではない。

足音は一つだけ。

自分のものと同じ速さで、同じ重さで、同じ間を空けて鳴っている。

ただ、少しだけ先にいる。

アリアは石壁へ背を寄せた。

しばらく待つ。

何も来ない。

風だけが通路の奥から流れてくる。

冷たく、乾いていて、土の匂いがしなかった。

アリアは唇を結び、また歩いた。

通路は少しずつ狭くなった。

天井が低い。

肩が岩に触れる。

胸の容器を守るため、身体を横にしなければ通れない場所もあった。

右手で壁を探り、左腕で火を抱える。

膝が石に当たり、擦りむける。

痛みが走る。

それでも、容器は落とさない。

しばらく進むと、岩肌の色が変わった。

自然の石ではない。

真っ直ぐな線が走っている。

等間隔に刻まれた溝。

割れ目ではなく、誰かが残した跡。

アリアは指先で触れた。

ざらり。

その瞬間、音が消えた。

風も。

追跡者の声も。

自分の息も。

世界から、耳だけを取り外されたようだった。

アリアはすぐに手を離す。

音が戻る。

風が流れる。

炭が小さく爆ぜる。

遠くで石が落ちる。

アリアは手のひらを見た。

何もついていない。

もう一度、壁に触れるか。

やめるか。

彼女は指を握り込んだ。

触れない。

今は、知ることより進むことを選ぶ。

通路の先に、二つの道があった。

右は広い。

床も平らで、天井も高い。

左は細い。

身を屈めなければ入れない。

だが、そこだけ風がある。

アリアはしゃがみ、砂に指を置く。

右の道には、古い灰が薄く積もっていた。

足跡はない。

風もない。

左の道には、小さな砂の筋ができている。

奥へ流れている。

外へ続くかもしれない。

もっと深い場所へ続くかもしれない。

アリアは左を見た。

火を抱えたまま通るには狭い。

何度も壁にぶつけるかもしれない。

消えるかもしれない。

右なら楽に進める。

少しだけ迷う。

そして、容器を胸へ押し当てた。

左へ入る。

石が肩を擦った。

服が引っ掛かる。

膝をつき、片手で身体を押し出す。

炭火が揺れる。

赤が小さくなる。

アリアは息を止めた。

風が通る。

火が消えかける。

彼女は容器を両手で包んだ。

熱い。

指先が焼けるように痛む。

それでも離さない。

しばらくして、赤が戻った。

小さく。

弱く。

でも、まだ残っている。

アリアはその場で少しだけ目を閉じた。

焚火の前で、真白が黙って座っていた夜を思い出す。

何も言わなかった。

火を足すことも、止めることも、急かすこともしなかった。

ただ、見ていた。

アリアは目を開く。

進む。

狭い道を抜けると、開けた空間へ出た。

天井は高く、暗闇に沈んでいる。

床には崩れた石柱が転がっていた。

柱の表面には、さっきの壁と同じ細い線が刻まれている。

アリアは足を止めた。

さっき見た石があった。

通路の途中に転がっていた、角の欠けた黒い石。

同じ形。

同じ位置に白い傷。

戻ってきたのか。

胸が冷える。

アリアは振り返る。

抜けてきたはずの細い道は、そこにある。

けれど、その奥は暗くて見えない。

彼女は床を見る。

自分の足跡がある。

片方だけ。

そこから先が、途切れている。

おかしい。

歩いてきたはずなのに。

アリアは容器を下ろし、床に膝をついた。

指で砂を払う。

小さな灰が落ちていた。

炭火からこぼれた灰。

それは、自分が通ってきた証だった。

戻ったのではない。

同じ場所でもない。

似ているだけ。

同じように見えるだけ。

アリアは立ち上がった。

見えているものを、全部信じるな。

でも、全部疑っていたら歩けない。

彼女は足元に落ちた灰を少しだけ指で集めた。

黒い線を床に引く。

短い印。

ここを通った。

それだけを残す。

空間の奥へ進むと、温度が変わった。

寒い。

さっきまでの冷たさとは違う。

肌の外ではなく、骨の内側から冷えるような寒さだった。

アリアは容器を抱え直す。

炭火の熱がある。

けれど、手のひらだけが温かい。

腕。

肩。

首筋。

背中。

そこだけが別の場所にいるように冷たい。

壁際に、古い布のようなものが落ちていた。

近づく。

布ではない。

薄い板だった。

乾いて、折れ曲がり、端が白く砕けている。

触れようとして、やめた。

進むために必要なものではない。

アリアは横を抜けた。

その時、足元で何かが鳴った。

コト。

小さな石が転がる。

見下ろす。

石は動いていない。

もう一度。

コト。

今度は、胸の容器の中から聞こえた。

アリアは蓋を開けかけ、手を止める。

開ければ、火が弱る。

確かめなければ、不安が残る。

彼女はしばらく容器を見つめた。

中の赤は、隙間からまだ見えている。

なら、開けない。

不安より、火を残す。

そう決めて、蓋から手を離した。

広間の奥に、細い出口が見えた。

そこへ向かって歩く。

影が伸びる。

炭火の光で、岩壁に自分の影が映っている。

アリアは歩く。

影も歩く。

今度は遅れない。

一歩。

また一歩。

出口まであと少し。

その時、影が止まった。

アリアはまだ歩いている。

影だけが、壁の上で立ち止まっている。

背筋が冷たくなる。

足を止める。

影も止まっている。

同じ形で。

同じ向きで。

ただ、少し前を見ているように。

アリアはゆっくり息を吸った。

逃げるか。

見るか。

彼女は影を見た。

長い沈黙。

やがて、影が片手を上げた。

アリアは手を上げていない。

炭火の赤が震えた。

影の指先が、壁の奥を指している。

そこには、細い裂け目があった。

出口だと思っていた場所よりも、さらに低く、暗い隙間。

人ひとりが、ようやく通れるほどの穴。

アリアは影を見る。

影はもう動かない。

正しい道かもしれない。

罠かもしれない。

ただの見間違いかもしれない。

アリアは出口を見る。

広い。

歩きやすい。

風はない。

裂け目を見る。

狭い。

冷たい。

でも、奥からかすかに空気が流れている。

アリアは容器を抱え直した。

「……そっちへ行く」

誰かに従うためではない。

自分でそう決めた。

膝をつき、裂け目へ身体を入れる。

石が背中を擦る。

服が破れる。

容器が岩に当たり、鈍い音を立てる。

火が揺れる。

アリアは身体を止め、両手で容器を包んだ。

痛い。

狭い。

苦しい。

でも、進む。

少しずつ。

少しずつ。

最後に肩をねじ込むと、身体が向こう側へ落ちた。

低い床に転がる。

容器を胸に抱えたまま、アリアは息を吐いた。

火は。

残っている。

赤は小さく、けれど消えていない。

アリアはしばらくそれを見つめた。

その時、背後で石が崩れた。

今通ってきた裂け目が、ゆっくり塞がっていく。

戻れない。

アリアは立ち上がった。

目の前には、さらに深い通路が続いている。

壁には、さっきよりも濃い線が刻まれていた。

床には薄い灰が積もっている。

誰かがここで火を使ったのかもしれない。

ずっと昔に。

あるいは、火ではない何かが、燃えた跡かもしれない。

アリアは足を踏み出した。

その足元に、自分の影が落ちる。

今度の影は、半歩だけ前にいた。

アリアはそれを見下ろす。

怖い。

でも、もう戻れない。

戻らないことを選んだ。

彼女は小さな火を抱えたまま、影の後ろを歩き出した。

暗闇の奥で、古い石が静かに鳴った。


第18話「境界の影」了

境界は、

行く者を導かない。

ただ、揺らぐ。

音をずらし、

距離をほどき、

温度を奪い、

影だけを先に置く。

それでも歩く者がいるなら、

境界は道になる。

少女はまだ、

その奥に何があるのかを知らない。

けれどその夜、

彼女はひとつだけ失わなかった。

小さな火を抱えた手と、

進むと決めた足を。

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