第17話「追われる火」
火は、炎だけを指す言葉ではない。
誰かが消さないと決めたもの。
誰かが手放さないと決めたもの。
その小さな熱は、
闇の中ほど、よく見える。
世界が、ひっくり返った。
足元が消え、岩肌が砕ける。
悲鳴を上げる間もなく、身体は闇へ投げ出された。
肩が岩に当たる。
背中を打つ。
転がるたびに息が漏れ、砂が口へ入り込んだ。
最後に固い地面へ叩きつけられ、ようやく動きが止まる。
静寂だった。
耳鳴りだけが残っている。
アリアは目を閉じたまま、自分の指をゆっくり動かした。
一本。
また一本。
動く。
腕も。
足も。
痛みはある。
それでも立てる。
ゆっくりと身体を起こすと、湿った土の匂いが鼻をかすめた。
頭上を見上げる。
細く裂けた空が、はるか遠くに見える。
その裂け目から、小石が転がり落ちてきた。
カラン、と乾いた音が響く。
まだ崩れている。
戻れない。
アリアは何も言わず、辺りを見回した。
岩陰に荷袋が引っ掛かっている。
水筒。
干し肉。
包帯。
小さな工具袋。
革袋に入った火打石。
落ちた物を、一つずつ拾い集める。
砂を払う。
革紐を結び直す。
それは誰かに教えられた作業ではない。
旅の中で、身体が覚えたことだった。
失くしたままでは終わる。
拾えば、また使える。
そのときだった。
遠くから声が響く。
「下にもいるぞ!」
「灯りを寄こせ!」
岩壁に反響した声が、洞の奥まで流れてくる。
追跡者だった。
次の瞬間、橙色の光が岩肌を這った。
松明。
炎が揺れるたび、影が大きく伸びる。
火は暖かいものだと思っていた。
けれど今夜、その火は人を探していた。
アリアは素早く岩陰へ身を寄せる。
膝を抱え、息を浅くした。
足音が近づく。
砂を踏む音。
鎧の擦れる音。
石を蹴る音。
誰かが岩を押し動かした。
鈍い音が胸へ響く。
「ここも違う。」
「奥を探せ。」
灯りがすぐ目の前を横切る。
熱と油の匂いが流れ込む。
心臓が喉まで上がる。
それでも動かない。
灯りは少しずつ遠ざかり、やがて闇だけが残った。
アリアは長く息を吐く。
その吐息で、小さな赤い光が揺れた。
岩の割れ目に、炭が残っていた。
崩れた焚火の欠片だろう。
今にも消えそうな、小さな火。
風が吹けば終わる。
置いていけば、ここで消える。
アリアはしゃがみ込み、その火を見つめた。
手を伸ばしかけて、止める。
追われている。
急がなければならない。
火まで持って歩けば、邪魔になる。
しばらく、その小さな赤を見つめ続けた。
静かな熱だけが残っている。
荷袋から空の金属容器を取り出す。
乾いた草を詰める。
炭をそっと移した。
両手で包み込む。
ほんの少しだけ、温かい。
その熱が掌へ伝わる。
母と囲んだ火。
ヴァルダで囲んだ火。
思い出そうとはしなかった。
ただ、その温かさだけを覚えていた。
遠くで再び叫び声が上がる。
「足跡がある!」
「急げ!」
時間がない。
アリアは立ち上がる。
前を見る。
暗い裂け目が奥へ続いていた。
細い風が流れてくる。
冷たい。
知らない匂い。
土ではない。
古い石の匂い。
その道を見つめたまま、アリアは小さく目を閉じる。
ふと、真白の横顔が浮かんだ。
静かに焚火を見つめていた夜。
何も教えなかった。
何も命じなかった。
ただ、隣にいただけだった。
アリアは小さく首を振る。
違う。
師匠は決めない。
決めるのは、私だ。
目を開く。
炭火を抱え直す。
荷袋を背負う。
岩壁へ手を添え、一歩踏み出した。
足元の石が小さく転がる。
止まる。
崩れない。
もう一歩。
暗闇が深くなる。
背後では、追跡者の松明がまだ揺れていた。
人を追う火。
胸に抱いた、小さな火。
どちらを残すか。
少女はもう迷わなかった。
通路はゆるやかに北へ続いていた。
岩肌には、自然には見えない細い筋が走っている。
指先で触れる。
滑らかだった。
誰かが削ったようでもあり、長い時間そのものが磨いたようでもある。
風が吹く。
その奥から届く冷気は、どこか静かだった。
足音だけが響く。
ひとつ。
またひとつ。
振り返れば、追う火がある。
前を向けば、まだ名も知らぬ闇がある。
アリアは振り返らなかった。
掌の熱だけを確かめながら、
誰も歩いたことのない道へ、
静かに歩き続けた。
第17話「追われる火」了
火は、
誰かから渡されるだけでは残らない。
消さないと決めた手の中で、
初めて明日へ続いていく。
その夜、
少女が守った火は小さかった。
けれど、その小さな熱は、
最初の灯だった。




