第四幕《選んだ傷》第16話「崩れた道」
人は、道を選んで歩いていると思っている。
けれど時には、
道のほうが静かに終わる日がある。
戻る場所が崩れ、
昨日までの景色が遠くなったとき、
残るのは一つだけ。
それでも、
次の一歩を自分で選ぶということ。
朝の荒野は冷えていた。
薄い雲が低く流れ、遠くの岩山の輪郭を白く曇らせている。荷車の車輪が乾いた土を噛むたび、軋んだ音が隊列の後ろまで伝わった。
アリアは車輪の横を歩いていた。
肩から工具袋を提げ、時々、車軸の揺れを見る。十二歳になった体には、もう子供の軽さだけではないものが少しずつ混じっていた。手のひらには古い傷があり、指先には油の匂いが染みている。
「止めてください」
アリアが言うと、荷車を押していた男が手を上げた。
隊列が止まる。
アリアは膝をつき、車軸の楔を指で押した。少し緩い。荷台の下から砂が落ち、乾いた音を立てた。
「抜くか?」
年長の技師が隣にしゃがむ。
アリアは少し考えた。
「抜いたら、ここで全部外れます」
「じゃあ?」
「打ち直します。少しだけ」
技師は頷いた。
「やれ」
アリアは木槌を取り出し、楔を叩いた。
一度。
二度。
三度目で音が変わる。
固く、短い音。
彼女は車輪を押した。ゆっくり回る。まだ少し重いが、進める。
「大丈夫です」
「任せてよかった」
アリアは工具をしまった。
少し離れた場所で、真白が見ていた。黒い外套の裾が風に揺れている。
技師が真白を見る。
「教えなくていいのか」
真白は短く答えた。
「覚える」
それだけだった。
アリアは聞こえないふりをして、工具袋の口を結んだ。
胸の奥が少し温かかった。
昼前、隊は乾いた谷へ入った。
左右の岩壁は高く、空が細い。荷車は一列になり、荷獣の息が白く上がった。谷底には古い轍が残っている。誰かが以前ここを通った跡だった。
先頭で隊長が止まる。
「道が割れてる」
前方の地面に細い亀裂が走っていた。深くはない。ただ、乾いた皮膚のように広がっている。
「引き返すか」
誰かが言った。
「遠回りになる」
別の声。
「日が暮れる」
「荷を減らせば通れる」
「車を一台置くか」
言葉が短く飛ぶ。
誰も命じない。
誰も正解を出さない。
アリアは荷車の影で聞いていた。
隊長はしばらく黙り、足元の土を蹴った。
「一台ずつ通す。重い荷は下ろせ」
「置くのか」
「置く分は後で取りに戻る。戻れなければ、それまでだ」
誰も文句を言わなかった。
持つもの。
置くもの。
守るもの。
諦めるもの。
ヴァルダでは、それをその場で選ぶ。
アリアも荷台へ上がり、水袋の木箱を下ろした。
少年のルカが手伝おうとして、箱に指をかける。
「重いよ」
「持てる」
ルカはむっとした顔で言った。
アリアは少し笑う。
「じゃあ、片方だけ」
二人で箱を下ろす。
その時、谷の奥から音がした。
カン。
小さな金属音。
アリアは顔を上げた。
風はない。
荷獣も鳴いていない。
もう一度。
カン。
今度は少し近い。
真白が岩壁の上を見た。
次の瞬間、地面の奥が唸った。
「伏せろ!」
叫びと同時に、谷の出口側で岩が崩れた。
砂煙が上がる。
荷獣が暴れ、荷車が傾く。木箱が落ち、水袋が裂けた。乾いた土に水が吸われていく。
その上から怒号が降ってきた。
「荷を置け!」
岩壁の上に人影。
顔を布で覆った男たち。
矢が飛ぶ。
荷車の幌に刺さる。
誰かが舌打ちした。
「襲撃だ!」
ヴァルダの戦士たちは走った。
派手な声はない。
荷車を倒して盾にする者。
子供を奥へ押しやる者。
水袋を拾う者。
負傷者の腕を掴む者。
アリアは工具袋を抱え、岩陰へ身を寄せた。
心臓が痛いほど鳴っている。
怖い。
喉が乾く。
けれど、足は動いた。
落ちた水袋を拾い、岩陰へ投げる。裂けたものは捨てる。無事なものだけ残す。
「アリア!」
ミナの声。
振り向く。
ルカがいない。
さっきまで箱のそばにいた少年の姿が、崩れた道の向こうにあった。
小さな体が岩の間で固まっている。
手には、落とした布袋を握っていた。
「ルカ!」
アリアが叫ぶ。
少年は動かない。
彼の背後で、さらに岩が崩れた。
こちらへ戻るには、割れた地面を越えなければならない。
行けば危ない。
行かなければ、自分は助かる。
誰も責めない。
たぶん、誰も責めない。
アリアは一歩踏み出し、止まった。
膝が震えていた。
矢が岩に当たり、欠片が頬をかすめる。
痛み。
熱。
血の匂いがした。
ミナが叫ぶ。
「戻って!」
隊長も振り向いた。
「アリア!」
真白は少し離れた場所に立っていた。
何も言わない。
アリアを見ている。
答えは来ない。
助けも来ない。
アリアは息を吸った。
恐いまま、喉の奥から声を出す。
「……行きます」
そして走った。
足元の土が崩れる。
砂が靴に入る。
岩を掴んだ指先が裂ける。
ルカはまだ動けずにいた。
アリアは少年の前に膝をついた。
「立てる?」
ルカは首を振った。
泣いていた。
「袋、落としたから」
「いい」
「でも」
「いい」
アリアは布袋を少年の手から外し、そこに置いた。
「手を出して」
ルカは震える手を伸ばした。
アリアは掴む。
細い手だった。
二人で戻る。
一歩。
二歩。
地面がまた鳴った。
カン。
今度は足の下。
アリアはルカを抱き寄せた。
亀裂が走る。
逃げ場が消える。
向こう側でヴァルダの戦士が腕を伸ばした。
「投げろ!」
アリアはルカの背を押した。
「行って!」
少年の体が宙へ出る。
戦士の腕が掴む。
ルカは引き上げられた。
その瞬間、アリアの足元が消えた。
落ちる。
空が遠ざかる。
岩壁が回る。
砂が目に入る。
左肩が岩にぶつかった。
息が抜けた。
声も出ない。
落ちながら、上を見た。
細い空。
崩れた道。
その縁に、真白が立っていた。
助けるためではない。
止めるためでもない。
ただ、見ていた。
その目だけが、最後までアリアを追っていた。
光が細くなる。
音が遅れる。
石が先に落ちたはずなのに、その音だけが後から来る。
アリアは闇に飲まれた。
土の匂いで目が覚めた。
冷たい。
口の中が砂でざらつく。
アリアは咳き込み、体を起こそうとした。
左肩に痛みが走った。
「っ……」
服が裂れている。
肩から腕にかけて、赤い線が滲んでいた。深くはない。けれど動かすたびに熱が走る。
アリアは布を噛み、片手で傷口を押さえた。
息を整える。
上を見る。
遠い裂け目から光が落ちている。
声は聞こえない。
叫ぼうとして、やめた。
届かない。
そう思った。
周囲は洞窟ではなかった。
壁がまっすぐすぎる。
石が積まれている。
床には薄い線が刻まれ、割れた柱が斜めに倒れていた。
古い。
あまりにも古い場所だった。
アリアは立ち上がる。
足音が響く。
一度。
遅れて、もう一度。
彼女は止まった。
自分の足も止まっている。
なのに、奥で小さく音が返る。
カン。
カン。
風はない。
それでも、床の砂だけが細く流れていた。
奥へ。
暗い方へ。
アリアは裂け目を見上げた。
帰る道は崩れている。
戻れるかは分からない。
ここに残れば、もっと分からない。
肩が痛む。
指先が震える。
ルカの手の感触が、まだ掌に残っていた。
アリアは工具袋を探した。
腰に残っている。
中身は少し散っていたが、小型灯は割れていなかった。
火を入れる。
弱い光が足元を照らした。
前方に、長い通路があった。
アリアは小さく息を吐く。
「……帰ります」
誰に向けた言葉でもなかった。
答えはない。
彼女は左肩を押さえたまま、一歩を踏み出した。
崩れた道の先へ。
16話「崩れる道」了
崩れたのは、
岩でも、土でもない。
「戻ればいい」という、
小さな安心だった。
痛みは傷になり、
傷はやがて、選んだ証になる。
まだ少女は知らない。
この日失った道の先で、
一振りの灰色の刃と出会うことを。
そしてその出会いが、
誰かに選ばれるためではなく、
自分で選び続ける人生の始まりになることを。




