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正解圏外 – The Outside of the Answer – 灰歴外伝|ヴァルダ旅記  作者: 咲凪すず


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第14話「渡す火」

火は、手の中に残らない。

抱えれば温かい。

離せば少し寒い。

それでも人は渡す。

消えるかもしれないと知りながら。

落とすかもしれないと知りながら。

誰かの夜が、

少しだけ明るくなるように。

夜明け前。

空にはまだ星が残っていた。

アリアは焚火の前にしゃがみ、灰の中を枝でそっとつついた。

白い灰の奥で、赤い火種が小さく息をしている。

ぱちり、と音がした。

焦げた木の匂い。

乾いた煙。

指先に残る、かすかな熱。

隣では年老いた女が、木箱の内側へ灰を敷いていた。

「持ってみるかい」

差し出された箱を、アリアは両手で受け取った。

思ったより重い。

中には灰に包まれた火種が眠っているだけなのに、腕にずしりと来た。

「重い」

「火だからね」

女は笑った。

アリアは箱を見下ろす。

火は軽そうに見える。

けれど、これは軽くなかった。


その朝、出発前に少年が水をこぼした。

名前はニル。

いつも荷車の後ろを走って、誰かの邪魔をして、怒られて、それでもまた笑う子だった。

「うわ」

水袋が倒れ、地面へ染みていく。

ニルは固まった。

水は貴重だ。

アリアは少しだけ迷って、自分の水袋を開けた。

「少しだけ」

「いいの?」

「少しだけ」

ニルは両手で受け取った。

「あとで返す」

「別に」

アリアは水袋を閉じる。

ニルは申し訳なさそうに笑った。

「火番、いつかやってみたいんだ」

「火番?」

「うん。火種箱、持つやつ」

アリアは朝に持った箱の重さを思い出した。

「重いよ」

「知ってる。でも、やってみたい」

そう言ってニルは走っていった。

すぐに荷車の陰で誰かに怒られていた。

アリアは少し笑った。


昼。

商隊は荒野を進んでいた。

日差しは強く、車輪の下で乾いた土が砕ける。

荷車が軋む。

運搬獣が鼻を鳴らす。

風は熱を含んでいた。

その途中で、ニルが倒れた。

最初は誰も気づかなかった。

荷車の陰で、膝から崩れるように座り込み、そのまま横へ倒れた。

母親が叫んだ。

人が集まる。

医師役の老人が額に触れ、まぶたを上げ、喉を見た。

「熱だ」

母親の手が震えた。

ニルの顔は赤く、呼吸は浅い。

老人は荷車の奥を探った。

小さな薬箱。

中身は少ない。

補給地までは四日。

全員がそれを知っていた。

ここで使えば残りが減る。

使わなければ、ニルが危ない。

商隊長は黙った。

老人も黙った。

母親も、何も言えなかった。

正しい答えがない時の沈黙だった。

アリアは離れた場所に立っていた。

胸の奥がざわつく。

自分の荷物の中に、薬包がある。

去年の冬、熱を出した時に分けてもらったものだ。

まだ使っていない。

もし渡せば、なくなる。

もし明日、自分が倒れたら。

もし怪我をしたら。

もし誰も薬を持っていなかったら。

足が動かなかった。

アリアは荷物へ向かい、布包みを開けた。

薬包を見つける。

指先でつまむ。

けれど、すぐに戻した。

怖かった。

九歳の手には、あまりにも重かった。

少し離れた岩陰に真白がいた。

こちらを見ている。

何も言わない。

助けるとも、やめろとも言わない。

答えを置かない人だった。

アリアは唇を噛んだ。

誰かが決めてくれたら楽なのに。

そう思った。

でも、その瞬間。

去年の冬を思い出した。

寒い天幕。

濡れた布。

喉の痛み。

誰かの手。

名前は覚えていない。

顔もぼんやりしている。

もう別の商隊へ行った人だった。

その人は薬を割って、半分をアリアへ渡した。

何も言わなかった。

ただ、渡した。

だから今、自分はここにいる。

アリアはもう一度、薬包を握った。

今度は戻さなかった。


「これ」

声は小さかった。

けれど全員が振り向いた。

アリアは薬包を差し出していた。

商隊長が目を見開く。

「アリア」

「使って」

声が震えた。

「でも、お前のだろう」

「分かってる」

怖い。

なくなる。

不安だ。

それでも、手は引かなかった。

「私も、前にもらったから」

母親が顔を上げる。

アリアはニルを見る。

朝、水袋を抱えて笑っていた子。

火番をやってみたいと言っていた子。

「だから、今度は私」

老人が薬包を受け取った。

長い沈黙。

やがて商隊長が頷いた。

「使おう」

母親が何度も頭を下げた。

アリアは困って首を振る。

「違う」

「え?」

「返しただけ」

そう言ってから、自分でも少し驚いた。

本当にそう思った。

何かを失った気はしなかった。

ただ、手の中が少し寒くなった。


夜。

ニルの熱は少し下がっていた。

まだ顔色は悪い。

けれど、母親の膝に頭を預けたまま、目を開けていた。

焚火の周りに人が戻る。

誰かが鍋をかき混ぜる。

誰かが布を干す。

薪が爆ぜる。

煙が低く流れる。

火の匂いが、夜の冷えた空気に混ざった。

朝の老女がアリアを呼んだ。

「今日はあんたの番だよ」

「私?」

「火種を渡す番」

木箱が差し出される。

アリアは両手で受け取った。

朝より重く感じた。

少し歩く。

ニルの前で止まる。

彼はぼんやりとアリアを見た。

アリアは箱を見る。

ニルを見る。

そして差し出した。

「はい」

「え?」

「持ってて」

ニルは慌てて身を起こそうとした。

母親が背を支える。

「でも」

「やりたいって言ってた」

ニルは目を丸くした。

覚えていたのか、という顔だった。

アリアは少しだけ笑う。

「次はあんた」

周囲が静かになった。

ニルはゆっくり箱を受け取った。

腕が沈む。

「……重い」

アリアは頷いた。

「火だから」

ニルは箱を抱えたまま、焚火を見た。

橙色の光が瞳に揺れる。

その顔は、まだ熱で赤い。

けれど少しだけ、誇らしそうだった。

老女が小さく笑う。

商隊長も鼻で笑った。

母親は目元を押さえた。

アリアは火を見た。

渡した。

けれど消えていない。


皆が眠ったあと。

アリアは焚火の前に座っていた。

火は小さくなっている。

灰の中で赤く残り、時々、静かに息をした。

真白が隣へ来た。

座る音もほとんどなかった。

しばらく、二人で火を見た。

「師匠」

「なんだ」

「私、返せたかな」

真白はすぐには答えなかった。

火が鳴る。

遠くで運搬獣が寝返りを打つ。

「知らない」

アリアは少しだけ眉を寄せた。

真白は火を見たまま続ける。

「あいつが決める」

アリアはニルの眠る天幕を見た。

その入口の近くに、火種箱が置かれている。

灰の中に、小さな赤が残っていた。

「そっか」

「ああ」

沈黙。

風が吹く。

火が揺れる。

真白が一言だけ言った。

「消えてないな」

アリアは頷いた。

「うん」

それだけだった。

けれど十分だった。

火はまだそこにあった。

誰かの手の中に。

そしてまた、

次の誰かへ渡る場所に。


第14話「渡す火」了

火は、持ち続けるものではない。

渡していくものだ。

手放せば寒い。

失うこともある。

けれど時々、

手放した後にしか残らないものがある。

名前を忘れた誰かの手。

半分だけ分けられた薬。

こぼれた水を補う小さな水袋。

重い火種箱。

それらは旅の中で形を変え、

誰かの夜へ届いていく。

火は大きくなくていい。

小さくていい。

灰の奥で、

まだ赤く息をしていればいい。

次の手が、

それを見つけられるように。


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