第12話「拾った名前」
風は名前を持たない。
けれど人は、
通り過ぎた風に名をつける。
消えた火にも。
残った傷にも。
旅の途中で出会った誰かにも。
呼ぶために。
振り返ってもらうために。
その夜。
小さな焚火のそばで、
ひとつの名前が拾われた。
朝。
夜明け前の冷たい空気の中、
アリアは空の水桶を抱えて歩いていた。
焚火の灰はまだ温かい。
商隊も完全には起きていない。
そんな中で、
子供たちの声だけが響いていた。
「また泣くぞ」
「泣き虫」
「置いていかれるぞ」
笑い声。
その輪の真ん中に、
昨日合流したばかりの少年がいた。
痩せている。
服は少し大きい。
肩だけが小さく縮こまっている。
少年は何も言わない。
ただ黙って地面を見ていた。
アリアは少し見ていた。
それから水場へ向かった。
何も言わなかった。
言葉が見つからなかった。
昼。
商隊は荒野を進んでいた。
乾いた風が吹く。
荷車が軋む。
遠くで鳥が旋回している。
アリアは歩きながら前を見る。
昨日の少年だった。
誰よりも前を歩いている。
時々走る。
また歩く。
風に押されるように。
小さな丘を登る。
そして両腕を広げた。
飛べもしないのに。
鳥の真似をしているみたいだった。
風が吹く。
少年は笑っていた。
その時だけは。
夕方。
焚火の準備が始まる。
薪を運ぶ者。
鍋を洗う者。
水を汲む者。
アリアも小枝を抱えて戻っていた。
ふと見る。
少し離れた場所に、
昨日の少年が一人で座っていた。
誰もいない。
風だけが通る。
アリアはそのまま通り過ぎる。
三歩。
四歩。
五歩。
足が止まる。
振り返る。
少年は石を転がしていた。
行く。
行かない。
少し迷う。
それから戻った。
隣へ座る。
少年がちらりと見る。
「何」
「別に」
アリアは答える。
本当に別にだった。
ただ一人だったから。
しばらく沈黙が続く。
やがて少年が空を見上げた。
高いところを鳥が飛んでいる。
「いいな」
小さな声だった。
「飛べて」
アリアも空を見る。
鳥は遠かった。
黒い点みたいだった。
少年はそのまま見上げていた。
ずっと。
夜。
焚火を囲み、
皆が食事をしていた。
湯気が立つ。
パンが焼ける。
誰かが歌う。
その中で。
また声が飛ぶ。
「泣き虫」
少年は黙る。
「泣き虫」
また誰かが言う。
焚火の向こうで、
年寄りの女が肩をすくめた。
「嫌なら選びな」
少年が顔を上げる。
「何を」
「名前さ」
火がぱちりと鳴る。
「前のでもいい」
「新しいのでもいい」
「拾ってもいい」
誰も急かさない。
誰も決めない。
風だけが通る。
少年は長く黙っていた。
火を見る。
空を見る。
また火を見る。
その時。
夜空を横切る鳥影が見えた。
一瞬だった。
けれど少年は見ていた。
昼と同じ目で。
風が吹く。
少年が口を開く。
「……ハヤテ」
静かな声だった。
誰かが笑う。
「速そうだな」
別の誰かが言う。
「似合う」
「ハヤテ」
一人が呼ぶ。
「ハヤテ」
また一人。
焚火の周りを、
その名前が回る。
少しずつ。
少しずつ。
少年の肩から力が抜けていく。
そして。
初めて笑った。
夜更け。
焚火は小さくなっていた。
アリアは火を見ていた。
隣には真白がいる。
いつからいたのか分からない。
アリアは火を見たまま聞く。
「名前って拾うの」
真白はしばらく黙っていた。
それから小さく言う。
「……そう呼ぶ者もいる」
風が吹く。
火が揺れる。
遠くの焚火から笑い声が聞こえる。
誰かが呼んだ。
「ハヤテ」
また誰かが呼ぶ。
「おい、ハヤテ」
アリアはその方を見る。
そして小さく呼んだ。
「ハヤテ」
少年が振り返る。
笑った。
火が揺れた。
第12話「拾った名前」了
夜が明ける前。
焚火は灰になる。
風が吹けば、
その形もすぐに崩れてしまう。
けれど。
昨夜呼ばれた名前だけは、
まだ火のそばに残っていた。
朝の風が吹く。
商隊が動き始める。
誰かが呼ぶ。
「ハヤテ」
その声と一緒に、
新しい一日が歩き出した。




