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第30話:持たざる者たちの宴

 ハルシオン・センターを追放され、ゴミの山を転がり落ちた四ツよつや かいは、都市の最下層を彷徨っていた。


 そこは、地図には存在しない場所だ。 高効率居住区の華やかな摩天楼の足元。巨大な排気ダクトと、下水処理場の隙間にへばりつくようにして、バラック小屋が密集している。 「棄民街」。 システムへの適合率が著しく低い者、IDを剥奪された者、あるいは海のように自らドロップアウトした者たちが、吹き溜まりのように集まる場所。


「……臭うな」


 海は、鼻を覆った。 腐敗臭と、排泄物の臭い。そして何より、濃厚な「人間」の体臭が充満している。 ここには、ハルシオンの清潔な管理は届かない。 ARのフィルターもない。 ただ、剥き出しのライフと、泥濘のような死が、ドロドロに混ざり合っている。


「おい、新入りか?」


 薄暗い路地で、男に声をかけられた。 ボロ布を纏い、歯が欠け、肌は垢にまみれている。 だが、その目はギラギラと光っていた。適合者たちの「死んだ魚のような穏やかな目」とは違う、飢えた獣の目だ。


「……通りすがりだ。街へ戻る」


「街へ? ハッ、あんな『家畜小屋』にか?」


 男は地面に唾を吐いた。粘り気のある黄色い唾。


「よせよせ。ここは自由だぞ。AIに指図されることもない。好きな時に寝て、好きなものを食う。……人間らしい暮らしだろ?」


 男が指差した先では、数人の男女がドラム缶の焚き火を囲み、何かを焼いて食べていた。 焼かれているのは、都市部から流れてきたドブネズミか。 彼らは大声で笑い、酒を回し飲みし、理由もなく殴り合いの喧嘩をしている。 感情がある。欲望がある。 確かに、ここには「人間性」が残っているように見えた。


「……そうだな」


 海は、少しだけ安堵した。 れんは思考を奪われたが、世界にはまだ、こうしてシステムに抗って生きている人間たちがいる。 俺は一人じゃないのかもしれない。


「こっちに来いよ。歓迎するぜ」


 男に招かれ、海は焚き火の輪に入った。 温かい。 火の粉が舞い、焦げた肉の臭いが鼻腔をくすぐる。 誰かが差し出した濁酒どぶろくのような液体を、海は一口飲んだ。 強烈なアルコールと、腐った果実の発酵臭。それが冷え切った内臓を焼く。


「あんた、いいもん持ってるな」


 男の視線が、海の胸元――泥だらけの『アウトシステム(OS)』に注がれた。


「……ああ。商売道具だ」


「へえ。それが噂の『思考拡張機』ってやつか? 闇市で見たことあるぞ」


 男たちは、興味深そうに集まってきた。 海は、身構えつつも、少し期待した。 彼らなら、この機械の価値を分かってくれるかもしれない。 80点の安寧を拒否し、この過酷な環境で生きる彼らなら、「自ら選ぶこと」の尊さを共有できるかもしれない。


「これを使えば、ハルシオンの嘘が見抜ける。……お前たちも、本当の世界を見たいか?」


 海が問うと、男たちは顔を見合わせてニタリと笑った。 欠けた歯の間から、汚れた舌が見える。


「本当の世界? そんなもんどうでもいいよ」


「え?」


「それよりさ、それを使えば『当たり』が分かるんだろ?」


 男の一人が、懐からボロボロの端末を取り出した。 ヒビ割れた画面に、違法ギャンブルのサイトが表示されている。


「次のレース、どっちが勝つか予測してくれよ。AIの予測じゃ儲けが少なくてつまらねえんだ」


「俺は、株の裏情報がいいな。一発当てて、上の街でいい女を抱きたい」


「俺はドラッグの調合比率だ! 脳がトブやつを頼むぜ!」


 彼らは口々に叫び、海に詰め寄った。 その目に宿っているのは、「自由への渇望」ではなかった。 単なる「射幸心」と、底なしの「欲望」だった。


「……おい、待てよ」


 海は後ずさった。


「お前たちは、システムが嫌でここに来たんじゃないのか? 自分の意志で生きたかったんじゃないのか?」


「意志? なんだそれ、腹の足しになるのか?」


 リーダー格の男が、嘲笑った。


「俺たちがここに来たのは、AIの管理が『窮屈』だったからだ。酒も制限される、ギャンブルもできない、喧嘩も止められる。……そんなのつまらねえだろ?」


「だから、俺たちはここに来た。欲望のままに生きるためにな!」


 男たちは、欲望にまみれた笑顔で海を取り囲む。 そこに「高潔な魂」などなかった。 彼らは、思考することを求めているのではない。 「動物的な快楽」を求めているだけだ。 ハルシオンの管理(理性)を拒否し、ただ本能のままに食らい、犯し、奪い合う。 それは「自由」ではなく、「野蛮」への退行だった。


(……同じだ)


 海は、戦慄した。 思考を放棄して「幸福な家畜」になった適合者たち。 理性を放棄して「飢えた野獣」になった棄民たち。 どちらも、「思考する(=苦悩して選ぶ)」ことから逃げている点では、全く同じだった。


「さあ、その機械で計算してくれよ! 俺たちを大金持ちにしてくれ!」 「教えろ! 正解を教えろ!」


 彼らの手が伸びてくる。 垢じみた指が、『OS』に触れようとする。 その手つきは、蓮に群がっていたエリート社員たちと、本質的には何も変わらなかった。 誰も、自分で考えようとはしない。 ただ、「楽をして得をする答え」を求めて、何かに縋り付こうとするだけ。


「……触るなッ!!」


 海は、近づいてきた男の手を振り払った。 ゴツッ! OSの角が男の顔に当たり、皮膚が裂けて血が出る。


「あ痛っ! ……てめえ、何しやがる!」


「失せろ! ……お前らも、あいつらと同じだ!」


 海は叫んだ。


「どいつもこいつも……! 楽な方へ、楽な方へ! 脳みそが腐ってんのか!?」 「ああん? 上等だ、殺せ!」


 男たちが色めき立ち、懐からサバイバルナイフや鉄パイプを取り出す。 野獣の群れ。 理屈は通じない。ここでは「暴力」だけが共通言語だ。


 海は、『OS』を盾にして構えた。 起動スイッチを入れる。 ファンが唸り、熱が海の手を焼く。 思考速度が加速する。


 男たちの動きが、スローモーションに見える。 右から来るナイフの軌道。左から来る鉄パイプの遠心力。足場のぬかるみ。 すべてが「物理データ」として処理される。


「……邪魔だ」


 海は、最小限の動きで攻撃を避けた。 足を掛け、手首を極め、急所を突く。 150点の戦闘演算。 それは武術ではない。最短距離で障害物を排除する、冷徹なパズルだ。


 バキッ。ドスッ。


 数秒後、男たちは泥の中に転がっていた。 殺しはしていない。だが、二度と立ち向かおうとは思わない程度の痛みを与えた。


「……化け物か、こいつ」


「逃げろ!」


 男たちは、恐怖に顔を歪めて逃げ散っていった。 海は、一人残された。 焚き火が爆ぜる音だけが響く。


「はあ……はあ……」


 海は、泥だらけの地面に膝をついた。 虚しかった。 適合者の街(天国)にも、棄民の街(地獄)にも、俺の居場所はない。 秩序に管理されるのも、混沌に身を任せるのも、どちらも「思考」の放棄だ。


「……蓮」


 海は、胸元の鉄塊を握りしめた。 お前が言っていたことは、ある意味で正しかったのかもしれない。 人間は、放っておけばこうなる。 誰かに飼われるか、野獣になるか。 「自律して生きる」なんてことができる人間は、エラー(バグ)でしかないのかもしれない。


「それでも……」


 海は、立ち上がった。 焚き火の炎が、海の瞳の中で揺れている。


「俺は、野獣にはならない。家畜にもならない」


 海は、棄民街の出口へと歩き出した。 向かう先は、あの無機質で、静かで、冷たい「高効率居住区」。 あの中で、異物として、ノイズとして、人間であり続けること。 それこそが、最も過酷で、最も尊い戦いなのだと、改めて思い知らされたからだ。


 背後で、残された男たちが、再び焚き火を囲み、下品な笑い声を上げ始めた。 その獣の声を背に、海はたった一人、灰色の舗装路(文明)へと戻っていく。 終わらない孤独への、再入場だった。


ここまでお読みいただきありがとうございます! 本作は【全35話完結済み】です。

もっと重厚な異世界ファンタジー戦略戦を楽しみたい方は、2025/12/18に完結するこちらの長編もぜひ!→ 『異世界の司令塔』

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死に戻る勇者×記憶保持の聖女。セーブポイントとなった聖女の悲恋が読みたい方はこちらもぜひ!→『セーブポイントの聖女は、勇者の「死に癖」を許さない』

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