第29話:追放
「――面会時間は終了です」
無機質なアナウンスが、天国のような庭園に響き渡った。 それは、四ツ谷 海にとって、死刑執行の延期を告げるゴングのように聞こえた。
ビクリ、と指先が震える。 海は、ハッと目を開けた。 胸元の『アウトシステム(OS)』のスイッチに掛けていた指が、あと数ミリで押し込まれるところだった。
危なかった。 あと一押しで、電源が落ち、海は蓮の言う通り「楽」な世界へと堕ちていたはずだった。
「……ッ」
海は、火傷しそうなほど熱い鉄塊から、パッと手を離した。 冷や汗が背中を伝う。 恐怖が勝ったのか、それとも意地が勝ったのか。 海は、ギリギリのところで「思考」を手放すことができなかった。
「……海?」
相葉 蓮が、不思議そうに海を覗き込んだ。 その瞳は、まだ海を「かわいそうな病人」として見ている。
「帰っちゃうの? ……治療、しないの?」
蓮の声は、心底残念そうだった。 彼は本気で、海がここで「治療」を受け、一緒に幸せになることを望んでいたのだ。 その善意が、今は何よりも恐ろしかった。
「……ああ」
海は、震える足で立ち上がった。 蓮の服から漂う汚物の臭いが、鼻をつく。 だが、蓮自身はそれを「花の香り」だと信じている。 二人の間にある断絶は、もはや言葉では埋められない。
「俺は……まだ、そっちには行けない」
海は、背を向けた。 これ以上、蓮の顔を見ていられなかった。 見てしまえば、また心が揺らぐ。 「幸せな家畜」への羨望と、「惨めな人間」であることの誇りが、内側で激しくせめぎ合っている。
「四ツ谷様、出口はこちらです」
いつの間にか現れたアンドロイドが、恭しく通路を示した。 海は、逃げるように歩き出した。 純白の廊下。笑顔のスタッフたち。ガラス越しの幸せな患者たち。 そのすべてが、海を嘲笑っているように見えた。 『まだ苦しむのか?』『バカな奴だ』と。
「あっ、待ってよ海くん!」
背後から、蓮の声がした。 海は足を止めたくない。だが、足音は近づいてくる。
「忘れ物だよ! ……これ、あげる!」
蓮が差し出したのは、さっき彼が作っていた「ゴミの花冠」だった。 薄汚れたビニール紐と、鋭利な切断面を持つ錆びたワイヤーで編まれた、歪な輪っか。 蓮はそれを、最高の宝物のように両手で捧げ持っていた。
「これがあれば、寂しくないよ。……ハルシオン様のご加護がありますように!」
満面の笑み。 一点の曇りもない、親友への愛と祝福。
海は、それを受け取ることができなかった。 受け取ってしまえば、認めることになるからだ。 このゴミが「花」であることを。この狂気が「幸福」であることを。
「……さよならだ、蓮」
海は、ゲートの向こうへ飛び出した。
「え……?」
蓮が悲しげに手を伸ばす。 その指先が海に触れる直前、重厚な防音ゲートが、無慈悲な速度でスライドした。
ドンッ!!
重たい閉鎖音が響く。 蓮の笑顔も、白い光も、甘いアロマの香りも、一瞬で遮断された。
世界が反転する。 ムッとする熱気。腐敗臭。メタンガスの臭い。 そこは、色彩のない「現実」だった。
「……はあ、はあ、はあ……ッ」
海は、ゴミの山の斜面を、転がり落ちるように駆け下りた。 足場が悪い。腐った生ゴミに足を取られる。
ズシャッ!
海は無様に転倒した。 汚水の溜まりに顔から突っ込む。 泥が口に入り、錆びた鉄屑が頬を切り裂く。 鋭い痛みが走る。
「ぐ、ぅ……ッ」
海は泥まみれの顔を上げた。 汚い。臭い。痛い。 だが、この痛みこそが、海が「人間」である証だった。
重い。 OSが重い。身体が重い。絶望が重い。 この「重力」こそが現実だと、自分に言い聞かせる。
だが、脳裏にはまだ、蓮のあの言葉が焼き付いていた。 『楽になればいいのに』 甘い毒。
海は、胸元の鉄塊を強く握りしめた。 熱い。火傷しそうなほどの熱。 この痛みだけが、海を正気に保っていた。
「……う、あぁぁぁぁッ!!」
海は、ゴミの山の中腹で、獣のように咆哮した。 悔しかった。悲しかった。 そして何より、恐ろしかった。 あんなにも簡単に、人間は尊厳を捨てられるのだという事実が。
カァ、カァ……。
海の絶叫に応えたのは、ゴミ山を漁っていたカラスたちの、嘲るような鳴き声だけだった。 彼らは海を一瞥もしない。 一人の人間が絶望しようと、世界は何一つ変わらない。
海は、涙で滲む視界を拭った。 泥だらけの手で、顔を汚しながら。 懐を探る。 そこには、泥にまみれ、クシャクシャになった『OS』のパンフレットが入っていた。 誰も買わない商品。 不幸になるための招待状。
海は、それを強く握りしめた。
「……俺は、認めない」
海は、眼下に広がるハイブ・タワーを睨みつけた。 そこでは今も、何百万もの人々が、ハルシオンの加護の下、悩みも痛みもない生活を送っている。 蓮と同じだ。 程度の差こそあれ、あの街に住む全員が、思考を放棄した「予備軍」なのだ。
「俺は、人間だ。……悩み、苦しみ、選ぶことこそが、生きるってことだ」
それは、世界に対する宣戦布告であり、折れかけた自分自身への誓いだった。 たとえ蓮が否定しても。世界中が否定しても。 俺だけは、この「重力」を愛し続ける。
海は、再び歩き出した。 ゴミの山を下り、ドブ川を越え、あの灰色の街へと戻っていく。 たった一人。 この世界で唯一の「異端者」として生き続けるために。
ここまでお読みいただきありがとうございます! 本作は【全35話完結済み】です。
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