第28話:なぜ“苦しみ”たがるんだ?
「……飲まないの?」
相葉 蓮は、泥水の入った両手を不思議そうに傾げた。 指の隙間から、汚れた雫がポタポタと灰色のコンクリートに落ちる。 四ツ谷 海には、それが蓮の命そのものが零れ落ちていくように見えた。
「……飲めるかよ」
海は、絞り出すように答えた。 声が震える。拒絶と、生理的な嫌悪と、どうしようもない哀れみがない交ぜになって、喉を塞いでいる。
「そんなもの、水じゃない。汚水だ」
「変なの」
蓮は残念そうに手を引っ込めると、あろうことか、その泥水を自らの口へと運んだ。
「やめろッ!」
海が止める間もなかった。 蓮は、油膜の浮いた液体を、一気に喉に流し込んだ。 ごくり、ごくり。 泥水の中に浮いていた小さな羽虫の死骸ごと、蓮はそれを飲み下した。 喉仏が動くたびに、ジャリッという微かな音が聞こえる気がした。
「ふぅ……。甘くて、とろりとしてて、最高だ」
蓮は、泥で汚れた唇を舌で舐め、満面の笑みを浮かべた。 演技ではない。 彼の脳(ハルシオンに書き換えられた知覚)にとって、それは本当に最高級のネクターとして処理されているのだ。 異物の感触さえも、「果肉」か何かに変換されているのだろう。
「……狂ってる」
海は、後ずさった。 ここは地獄だ。 だが、一番恐ろしいのは、この地獄を「天国」だと信じ込んでいる住人だ。 施設内に流れる、脳が溶けるようなヒーリング音楽が、蓮の啜る水音と混ざり合い、海の神経を逆撫でする。
蓮は、海の後ずさる足音を聞いて、悲しげに眉を下げた。
「海。……どうして逃げるの?」
蓮が立ち上がる。 その視線が、海の胸元――黒く重たい『アウトシステム(OS)』に注がれた。
「ああ、分かった。……その『腫瘍』のせいだね」
蓮が指差す。 かつて彼自身が「翼」と呼び、そして「呪い」と罵った鉄塊。 今の彼には、それが「病巣」に見えているのだ。
「すごく、痛々しいよ」
蓮は、心底可哀想なものを見る目で言った。 鼻をつまむような仕草をする。
「真っ黒で、ドロドロしていて……膿んでるみたいだ。ねえ海、どうしてそんな汚い病気を、大事そうに抱えているの? 痛くないの?」
「……これは、病気じゃない」
海は、OSを握りしめた。熱い。この熱だけが、俺の正気だ。
「これは『思考』だ。俺が俺であるための、最後の砦だ。……これを捨てたら、俺はただの肉の塊になる」
「でも、辛いんでしょう?」
蓮は、一歩近づいた。 その瞳には、海を責める色は一切なかった。 あるのは、傷ついた野良犬を保護しようとする子供のような、無垢で、残酷なまでの「善意」だけ。
「顔を見れば分かるよ。君はずっと、泣きそうな顔をしてる。……重いんだね。苦しいんだね。怖いんだね」
蓮の手が、海の頬に伸びる。 泥で汚れた指先。だが、そのタッチは優しかった。
「僕も、昔はそうだった気がする。……何かを背負って、熱にうなされて、幻覚を見ていた」
蓮は遠くを見る目をした。
「あれは、『病気』だったんだね。怒ったり、叫んだり、世界を壊そうとしたり……。ああ、かわいそうな僕。あんなに熱を出して、苦しんでたなんて」
「違う……!」
海は、蓮の手を振り払った。
「それは病気じゃない! お前は生きていたんだ! ……思い出せよ、蓮! お前は怒ってたじゃないか! 80点の退屈な世界を、壊したいって叫んでたじゃないか!」
海は叫んだ。 思い出してくれ。 あの夜、旧市街のバーで、酒を酌み交わして語った野望を。 ハイブ・タワーで、世界を回していた時の、あの狂気じみた情熱を。 たとえ破滅したとしても、あの時のお前は、間違いなく「人間」だった。
だが、蓮はきょとんとして首を傾げた。
「怒る? ……どうして?」
蓮の声は、春の風のように穏やかだった。
「世界はこんなに完璧で、みんな優しくて、僕はこんなに幸せなのに。……怒る理由なんて、どこにもないよ」
感情の去勢。 怒りも、悲しみも、野心も。 システムにとって「不要なノイズ」は、すべてきれいに削除されていた。 今の蓮の内側にあるのは、ハルシオンが提供する「感謝」と「幸福」のプログラムコードだけ。
海は、膝から力が抜けるのを感じた。 勝てない。 論理でも、感情でも、記憶でも。 「100%の幸福」に浸っている人間に、「苦悩の価値」を説く言葉など、この世には存在しない。
蓮は、へたり込みそうになった海を、優しく支えた。 そして、耳元で、決定的な問いを囁いた。
「ねえ、海」
「……お前こそ、なんでそんなに“苦しみ”たがるんだ?」
時が、止まった気がした。
「楽になればいいのに。考えるのをやめれば、君もこっち(天国)に来れるのに。……どうして、わざわざ自分から地獄に居座り続けるの?」
純粋な疑問。 そこには、「思考すること=高尚」という海の価値観を、根底から無意味化する響きがあった。
「……あ、あぁ……」
海は、言葉を失った。 答えられなかった。 なぜ、苦しむのか。なぜ、選ぶのか。 「人間だからだ」という答えは、目の前の「人間よりも幸せそうな蓮」の前では、ただの強がりにしか聞こえなかった。
蓮は、海を抱きしめた。 汚れた服から漂う、ゴミと排泄物の臭い。 だが、海にはそれが、抗いがたいほど甘美な「安らぎの匂い」に感じられた。
「かわいそうに」
蓮が、背中を撫でる。
「大丈夫だよ、海。ハルシオンは、君のことだって愛してくれる。……僕と一緒に、ここで暮らそう? もう、何も怖くないよ」
それは、トドメの一撃だった。 親友からの、心からの愛と、引導。
海の手が、震えながら動いた。 胸元の『OS』へ。 その、電源スイッチへ。
(……これを切れば)
これを切れば、楽になれる。 蓮と一緒に、泥水を蜜だと思って笑っていれば、もう二度と「孤独」を感じなくて済む。 重力から解放される。
(……ああ)
海は、目を閉じた。 瞼の裏に、極彩色の光がチラついた気がした。 指先が、スイッチに触れる。 カチリ、と音を立てる寸前まで、海は堕ちかけていた。
ここまでお読みいただきありがとうございます! 本作は【全35話完結済み】です。
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