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第27話:幸福な拒絶

 四ツよつや かいは、ゴミの山の斜面で足を止めた。


 靴底が腐敗した有機物を踏みしめ、グズリと嫌な音を立てる。 鼻腔を満たすのは、都市が吐き出した汚泥とメタンガスの臭気。 見上げれば、鉛色の空が重く垂れ込めている。


 これが現実だ。 海が愛し、れんに見せようとした、150点の世界の成れの果てだ。


「……はあ、はあ……」


 海は、膝に手をついて呼吸を整えた。 背後には、白亜の『ハルシオン・センター』が聳え立っている。 あそこから逃げ出した。 思考を奪われ、家畜のように飼育される親友の姿に耐えきれず、医師の完璧な論理に反論できず、無様に背を向けて走った。


 これでいいのか? このまま街へ戻り、蓮のことを忘れて、「あいつは幸せになったんだ」と自分に言い聞かせて生きるのか?


(……それは、「逃げ」だ)


 海は、胸元の『アウトシステム(OS)』を握りしめた。 熱い。 この鉄塊は、まだ熱を発している。 「思考しろ」と。「選べ」と。 安易な忘却に逃げるなと、海を責め立てている。


 もし今、ここで逃げ帰れば、俺は蓮と同じになる。 「辛い現実(重力)」から目を逸らし、「楽な解釈(無重力)」に逃げ込む。 それは、蓮が選んだ「安寧」と何が違う?


「……戻らなきゃ」

 海は、踵を返した。 救うためではない。連れ戻すためでもない。 ただ、確認しなければならない。 俺たちが信じた「自由」が、本当にあそこ(安寧)よりも価値があるのかどうかを。 そして、親友が選んだ「死」を、最後まで見届ける義務が、呪いを渡した自分にはあるはずだ。


 ゲートの前に戻ると、カメラアイが再び海を捉えた。


『おかえりなさいませ、四ツ谷様』


 拒絶はなかった。 システムは、戻ってきた「迷える子羊」を、変わらぬ慈悲で迎え入れた。


 中庭セラピー・ガーデン。 灰色のコンクリート広場に、相葉あいば れんはまだ座っていた。 彼は、手元にある「何か」を、熱心に編み込んでいた。


「……蓮」


 海が声をかけると、蓮はゆっくりと顔を向けた。 その表情は、先ほどと変わらず、不気味なほど穏やかだった。


「あれ、海? まだいたの?」


 蓮は、無邪気に笑った。 その笑顔には、かつてのエリートの傲慢さも、革命家の熱情も、路地裏での憎悪もない。 ただ、凪いだ水面のような「無」があるだけだ。


 海は、蓮の前にしゃがみ込んだ。 コンクリートの冷たさが膝に伝わる。


「蓮。……帰ろう」


 海は言った。届かないと分かっていても、言わずにはいられなかった。


「ここは、お前のいるべき場所じゃない。こんな……嘘で塗り固められた世界で、一生を終えるつもりか?」


「嘘? ……ふふ、海は面白いねぇ」


 蓮は小首を傾げた。会話が噛み合わない。 彼は海の話など聞いていなかった。彼の手元には、薄汚れたビニール紐と、錆びたワイヤーの束があった。ゴミの中から拾い集めたのだろう。 蓮はそれを、器用な指先で編み続けている。指先が錆で赤く汚れているが、気にする素振りもない。


「見てごらん、海。……花冠を作ってるんだ」


「……え?」


「ここの花は最高だよ。色が歌ってるんだ」


 蓮が差し出したのは、泥だらけのゴミ屑の塊だった。 だが、彼の目には、それが極彩色の美しい花々に見えているのだ。


「外の世界こそ、嘘だったんだよ」


 蓮は、ゴミ屑を愛おしそうに撫でながら言った。


「汚くて、臭くて、みんながイライラしてて……。あんなの、悪い夢だ。ここに来て、やっと目が覚めたんだよ」


「違う!」


 海は、蓮の肩を掴んだ。 華奢な肩。骨が浮き出ている。


「それは、お前の脳が麻痺させられているだけだ! 目を覚ませ! お前が持っているのはゴミだ! お前が今座っているのは、冷たいコンクリートだ!」


 海は叫んだ。 現実を見ろ。痛みを感じろ。 それが生きるってことだろう?


 だが、蓮は悲しげに首を振った。


「海。……君は、狂っているよ」


「……は?」


「ゴミなんて、どこにもないじゃないか。コンクリートなんてないじゃないか。……どうして、君には『見えないもの』が見えるの? どうして、わざわざ汚い幻覚を見て、苦しんでいるの?」


 蓮の瞳には、純粋な「心配」が宿っていた。 海は、言葉を失った。


 逆転している。 海にとっての「現実リアル」は、蓮にとっては「狂人の妄想ナンセンス」なのだ。 そして蓮にとっての「現実(AR)」こそが、唯一の真実なのだ。


 共通言語がなかった。 「赤」を「青」と呼ぶ人間と、「青」を「赤」と呼ぶ人間が話しているような、絶望的な乖離。


「……蓮。俺たちは、150点を目指したじゃないか。80点の退屈な世界を壊そうとしたじゃないか」


「150点?」


 蓮は、きょとんとした。


「そんな数字、意味ないよ。……今はね、満点(100点)なんだ」


 蓮は、胸に手を当てて、うっとりと微笑んだ。


「満たされているんだ。何も足りなくない。何も欲しくない。……これ以上、何を望む必要があるの?」


 完璧な充足。欲望の欠落。 それは、人間が進化の果てに到達する「仏」の境地なのかもしれない。 だが海には、それが「死」にしか見えなかった。 渇きがない人間に、水を与えることはできない。


「そうだ。……喉、乾いたでしょ?」


 蓮は、ふと思いついたように、足元の水たまりに手を伸ばした。 油膜の浮いた、泥水。 それを両手で掬い、海に差し出した。


「ほら、お飲みよ。甘い蜜だよ」


「……ッ!」


 海は、反射的にその手を払いのけそうになった。 だが、蓮の笑顔があまりに無垢で、手が止まった。 蓮は、本気でそれを「蜜」だと信じ、親友に分け与えようとしているのだ。


「……そうか」


 海は、掠れた声で呟いた。


「お前は、本当に……幸せなんだな」


 皮肉ではなかった。 敗北宣言だった。 「苦悩する自由」を掲げて戦ってきた海は、「思考放棄した安寧」という圧倒的な幸福の前に、完全に論破されたのだ。


「うん、幸せだよ」


 蓮は、無邪気に頷いた。 そして、海の手をそっと握り返してきた。

 ギュッ。


「いッ……!?」


 海は顔をしかめた。 強い。異常な力だ。 リミッターの外れた握力が、海の骨を軋ませる。 だが、蓮は加減など知らない。ただ、親友の手を引こうとしているだけだ。


「だからね、海。……君も、早くこっちにおいでよ」


 蓮は、ゴミで作った花冠を、海の方へ掲げた。 泥と錆の臭いが鼻をつく。 鋭利なワイヤーの先が、海に向けられている。 だが、蓮の瞳は、まるで楽園への招待状を渡す天使のように輝いていた。


 その「善意」は、海にとって、どんな罵倒よりも鋭く、深く、心臓を突き刺した。


ここまでお読みいただきありがとうございます! 本作は【全35話完結済み】です。

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