第2章 日曜日の朝
水道の蛇口にコップを付けて水を汲んだ。達也はその中の水泡が落ち着くのを見ながら、じっくりと味わうように喉に流し込んだ。
今日もシンクには、洗い物が浸かっている。でも今は洗う気になれなかった。いつもの通りコーヒーを飲もうかと迷ったが、まだ寝ぼけて頭が冴えないので、それも(まあいいか)と。
家族とのコミュニケーションがうまくいっていないと、重たい気分になる。それも(まあいいけど)などと考えてしまうのは、本心ではなく、諦めとも反抗心とも言える。結局のところ、家での行動すべてにおいて意欲が湧かないので、外に出ることが増えてしまうのだが、達也はパチスロなどで時間つぶしをする趣味を持ち合わせていなかった。
この日は缶コーヒーを片手に、河川敷を散歩してみた。そうするくらいしか、家から逃げ出す理由を思いつかなかったからだ。
土手の上から、少年野球チームが練習する様子を眺めながら歩いていると、端っこでサッカーをするグループがいた。
「早く! パスパス!」
「こっちこっち!」
とても元気なグループで、野球の練習チームより声が出ている。達也は、その中に女子が混じっているのを見つけて足を止めた。
中学生くらいの女の子にしては珍しく、真剣にサッカーボールを追いかけているが、一向にボールを奪うことができずにいた。近くにあったベンチに散った桜の花びらを払いのけ、その端に腰掛けて、缶コーヒーを開けた。暫くそのサッカー女子に注目していたが、やはりボールはその子にはパスされない。それでも必死で追いかける姿が哀れにさえ思えて、その様子を目で追っていると、
「おはようございます」
という声が自分に対して投げかけられてきたことに気づいた。振り向くと、見慣れぬ初老の紳士が立っている。
「あ、・・・おはようございます」
達也はその人物を見て、知り合いだったかどうか、よーく考えてみたが思い当らない。
「あの、どこかでお会いしたことがありましたでしょうか」
「いえいえ。今日は日曜だというのに、なんだか物憂げに見えたので、声をかけさせてもらったんですよ」
「物憂げ・ですか?」
達也が缶コーヒーをゴクリと飲むと、その男性はさらに近寄って、
「私、そこの町田クリニックの院長をしております。町田というものです。専門は神経内科なのですが、精神的ストレスを抱えた患者さんも多く、皆あなたにような表情をされておりまして、少し心配になったものですから」
「私、そんなに暗い表情してますか?」
「暗いというのとは違いますよ。でも、何か不安をお持ちなのがすぐに分かります。よかったらお話をお聞かせ願いませんか」
達也はこの町田という人物が、きちんとした身なりをしているので、医者なのは本当そうだと思った。しかし、
「自殺とかそんなことは考えていませんし、お話するようなことは特には・・・」
自分の足元に目をやり、コーヒーの缶を両膝で挟み、背伸びしてそうごまかそうとしたら、
「ひょっとして、この前の脱線事故に関係があるんじゃないですか?」
「脱線事故?」
「ええ、三か月前の雪の日。何者かが置き石をしたあの事故ですよ。多くの方が亡くなりました。私のところにも精神的ダメージを受けた患者んさんが、今も通ってこられています」
「いえ、私はその事故とは無関係です」
「そうですか、でもそれくらい心に問題を抱えておられるようにお見受けしました」
「私の悩みなんか、その事故の患者さんに比べたら、大したことは」
「ほう、どういった悩みです?」
達也はこの医者という男性に、少し問題を打ち明けてみようかと思った。
「実は、妻とうまくいってませんで、息子とも会話ができなくなっているのです」
「そうですか、それは切実な悩みですね。解ります。奥様はお仕事はされているのですか?」
「いえ、妻は妊娠を機に会社を辞めてから、もう10年以上、仕事をしていません」
「ははは、有閑マダムというわけですか」
町田医師は微笑みながら、達也の座るベンチに腰かけた。
「ふふ、妻が昼間どうしているのかなんて、全く知りません。顔を合わせても会話がないですから」
「服装や化粧が派手になったとか、気になることでもあるんですか?」
達也は黙った。妻の浮気? 妻からそんな素振りなど感じたことはなかった。全部自分の不甲斐なさからくる間違った想像であってほしいと思う気持ちを、言葉にできなかったのだ。
「一人で悩んでても健康に良くありません。一度カウンセリングにお越しください」
「カウンセリングですか?」
「木曜日の休診日の晩に集まってもらって、無料で開催しています」
「へえ、無料で」
「ええ、実は、私の専門ではありませんのでね。気軽にどうですか」
町田医師は笑って言った。
「どういった患者さんが多いんですか?」
「守秘義務があるので具体的には言えませんが、ご本人の口から悩みを語ってもらって、それぞれの不安を共有することで、気を強く持ってもらおうと思っています」
「私のくだらない悩みなんか・・・」
「いえいえ、誰にでも悩みはあるものです」
「でも、お邪魔するだけですし」
「そうじゃありません。他の参加者のためでもあるんです」
「と言われますと?」
「どんな些細なことでもいいんです。自分の悩みを相談することも重要ですが、より多く、他人の悩みを聞いて考えることも、大事なことなのです」
「それでよくなるもんですか?」
「精神的な病気が、気の持ちようだとしたら、かなり効果があると思います」
達也は再びグランドのサッカーに興じる子供たちを見た。しかし、もう先ほどの女の子はいなかった。周囲を見渡しても、もうその子の姿は見つけられなかった。




