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4

 翌日の朝。


 屋敷のキッチンには、まだ外の光が十分には届いていなかった。彩花は早くから起きて、味噌汁を作り、焼き魚を皿に盛り、ご飯を茶碗によそった。昨夜のことを考えないようにしていたが、考えないようにすると、かえって鮮明に思い出された。


 それでも朝食は作った。

 妻なのだから、それくらいはするものだと思った。

 テーブルに料理を並べ終えたころ、廊下から足音が聞こえてきた。

 響が部屋から出てきた。


 黒髪を整え、眼鏡をかけ、きちんとしたスーツを着ている。昨夜の男とは別人のようだった。財閥家の長男として、人前に出るための顔をすでに身につけている。


「響さん、おはようございます」


 彩花が振り返った。


「朝食を作ったので、召し上がってください」


 響は答えなかった。


 ダイニングテーブルに近づき、椅子にも座らず、味噌汁の椀を手に取った。

 一口だけ飲む。

 そして、そのままキッチンへ向かった。

 彩花が何をするのか見ていると、響はシンクに味噌汁を捨てた。


「……え?」


 彩花の声が小さく漏れた。

 その場にいた執事の羽鳥が、思わず眉をひそめた。

 白髪の初老の男、長年この屋敷に仕えてきた彼にとっても、今の行動は見過ごせないものだった。


「響様、それはいかがなものかと……」


 響は羽鳥に目を向け

「行ってきます」

 それだけ言って、鞄を手に取り、玄関へ向かう。


 扉が閉まった。

 広い屋敷の中に、再び静けさが戻ってきた。

 彩花はテーブルに並べられた朝食を見つめていた。


 湯気の立つ味噌汁。

 焼き魚。

 白いご飯。

 どれもまだ温かかった。

 羽鳥が静かに彩花のそばへ歩み寄った。


「彩花様、響様は機嫌が悪いだけですので、あまりお気になさらず…」


 彩花は答えなかった。

 昨夜から胸の奥に溜まっていたものが、少しずつ形を変えているのが分かった。

 悲しみではなかった。

 今度は、はっきりとした怒りだった。


 ♢


 夜。


 屋敷のダイニングには、彩花が作った夕食が並んでいた。昼間のうちから何を作ろうか考えていた。響が朝食をほとんど口にしなかったことが、ずっと頭に残っていたからだ。

 テーブルの上には温かな料理が並び、彩花は椅子に座って響の帰りを待っていた。


 時計の針がゆっくり進んでいく。

 やがて玄関の扉が開いた。

 響が帰ってきた。

 彩花は立ち上がった。


「響さん、おかえりなさい」


 響は靴を脱ぎながら、彩花を一瞥した。


「夕飯を作ったので……」


「必要ない」


 彩花の言葉を遮るように、響は言った。

 そしてそのまま、ダイニングを通り過ぎて自室へ向かった。


「響さん」


 返事はなかった。

 やがて扉が閉まる音がした。

 彩花は立ち尽くした。

 テーブルの上には、二人分の食事が残されている。

 さっきまで温かかった料理から、少しずつ湯気が消えていった。


「…………」


 彩花は椅子に座った。

 俯くと、目から涙がこぼれた。

 一度こぼれると、止まらなかった。


「彩花様……」


 いつの間にか羽鳥がそばに立っていた。


「……大丈夫ですか?」


「大丈夫……です」


 そう言いながらも、彩花の声は震えていた。

 羽鳥は何も言わず、少し離れたところに立った。


「彩花様が悪いわけではございません」


 その言葉に、彩花は顔を上げた。


「……私が妻として、もっとちゃんとしていれば……」


「いいえ」


 羽鳥は静かに首を横に振った。


「彩花様は十分にされております」


 彩花は唇を噛んだ。

 それでも涙は止まらなかった。

 広すぎるダイニングの中で、二人分の食事だけが取り残されていた。

 それはまるで、まだ夫婦になりきれていない二人のために用意された、少し早すぎる夕食のようだった。



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