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翌日の朝。
屋敷のキッチンには、まだ外の光が十分には届いていなかった。彩花は早くから起きて、味噌汁を作り、焼き魚を皿に盛り、ご飯を茶碗によそった。昨夜のことを考えないようにしていたが、考えないようにすると、かえって鮮明に思い出された。
それでも朝食は作った。
妻なのだから、それくらいはするものだと思った。
テーブルに料理を並べ終えたころ、廊下から足音が聞こえてきた。
響が部屋から出てきた。
黒髪を整え、眼鏡をかけ、きちんとしたスーツを着ている。昨夜の男とは別人のようだった。財閥家の長男として、人前に出るための顔をすでに身につけている。
「響さん、おはようございます」
彩花が振り返った。
「朝食を作ったので、召し上がってください」
響は答えなかった。
ダイニングテーブルに近づき、椅子にも座らず、味噌汁の椀を手に取った。
一口だけ飲む。
そして、そのままキッチンへ向かった。
彩花が何をするのか見ていると、響はシンクに味噌汁を捨てた。
「……え?」
彩花の声が小さく漏れた。
その場にいた執事の羽鳥が、思わず眉をひそめた。
白髪の初老の男、長年この屋敷に仕えてきた彼にとっても、今の行動は見過ごせないものだった。
「響様、それはいかがなものかと……」
響は羽鳥に目を向け
「行ってきます」
それだけ言って、鞄を手に取り、玄関へ向かう。
扉が閉まった。
広い屋敷の中に、再び静けさが戻ってきた。
彩花はテーブルに並べられた朝食を見つめていた。
湯気の立つ味噌汁。
焼き魚。
白いご飯。
どれもまだ温かかった。
羽鳥が静かに彩花のそばへ歩み寄った。
「彩花様、響様は機嫌が悪いだけですので、あまりお気になさらず…」
彩花は答えなかった。
昨夜から胸の奥に溜まっていたものが、少しずつ形を変えているのが分かった。
悲しみではなかった。
今度は、はっきりとした怒りだった。
♢
夜。
屋敷のダイニングには、彩花が作った夕食が並んでいた。昼間のうちから何を作ろうか考えていた。響が朝食をほとんど口にしなかったことが、ずっと頭に残っていたからだ。
テーブルの上には温かな料理が並び、彩花は椅子に座って響の帰りを待っていた。
時計の針がゆっくり進んでいく。
やがて玄関の扉が開いた。
響が帰ってきた。
彩花は立ち上がった。
「響さん、おかえりなさい」
響は靴を脱ぎながら、彩花を一瞥した。
「夕飯を作ったので……」
「必要ない」
彩花の言葉を遮るように、響は言った。
そしてそのまま、ダイニングを通り過ぎて自室へ向かった。
「響さん」
返事はなかった。
やがて扉が閉まる音がした。
彩花は立ち尽くした。
テーブルの上には、二人分の食事が残されている。
さっきまで温かかった料理から、少しずつ湯気が消えていった。
「…………」
彩花は椅子に座った。
俯くと、目から涙がこぼれた。
一度こぼれると、止まらなかった。
「彩花様……」
いつの間にか羽鳥がそばに立っていた。
「……大丈夫ですか?」
「大丈夫……です」
そう言いながらも、彩花の声は震えていた。
羽鳥は何も言わず、少し離れたところに立った。
「彩花様が悪いわけではございません」
その言葉に、彩花は顔を上げた。
「……私が妻として、もっとちゃんとしていれば……」
「いいえ」
羽鳥は静かに首を横に振った。
「彩花様は十分にされております」
彩花は唇を噛んだ。
それでも涙は止まらなかった。
広すぎるダイニングの中で、二人分の食事だけが取り残されていた。
それはまるで、まだ夫婦になりきれていない二人のために用意された、少し早すぎる夕食のようだった。




