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響はベッドの脇に手を伸ばした。そして、そこに置かれていたものを取り出した。
細長い黒い鞭だった。
彩花は一瞬、何を見ているのかわからなかった。
「響さん……それはなんですか?」
響は答えなかった。
ただ、鞭を手にしたまま、軽く振ってみせた。空気を切る乾いた音が、静かな寝室に響いた。
彩花の顔から血の気が引いた。
「……やめてください……」
響は彩花を見る。
「……嫌か?」
彩花は答える代わりに、ベッドから離れた。
響は立ち上がらなかった。
ただ、手にした鞭を見つめていた。
「大丈夫だ。すぐ終わる」
彩花がその言葉を聞いた瞬間、響の腕が動いた。
鞭が空気を切り、彩花の方へ振り下ろされた。
彩花は反射的に目を閉じた。
しかし、次の瞬間。
「……え?」
何も起こらなかった。
確かに身体に当たった感触はあった。
けれど、痛みはなかった。
彩花は恐る恐る目を開け、自分の身体を確認した。
「……痛くない」
響は鞭を手にしたまま、何でもないような顔をしていた。
その鞭は見た目だけなら、ずいぶん立派なものだった。
しかし実際には、舞台などで使われる小道具だった。柔らかな素材で作られていて、人に当たっても痛みを与えないようになっている。
彩花はしばらく鞭を見つめ、それから響を見た。
「このような低俗なこと…、お止めになってください」
「低俗だと?」
「……」
彩花は眉を寄せた。
「そうです、いきなり鞭を振るなんて、ひどすぎます!」
響は黙って彩花を見つめた。
やがて、その口元がほんのわずかに緩んだ。
彩花はその表情を見て、ますます困惑した。
自分が今まで知っていた響とは、まるで違う。
「俺に口答えするとは、いい度胸だ」
響はそう言うと、手にした鞭をもう一度振った。
パシン、と乾いた音が寝室に響いた。
「きゃっ!」
彩花は思わず両手で耳を押さえ、身体を硬直させた。
その様子を見て、響が笑った。
「もう……!」
彩花は眉間にしわをよせ、そのまま響の手から鞭を奪い取る。
「なにをするつもりだ?返せ」
彩花は鞭を握ったまま、少しだけ迷った。
そして次の瞬間、持ち手の部分で響の頭を軽く叩いた。
「いっ……」
響が頭を抱えた。
彩花は目を見開いた。
「……ごめんなさい。こんなつもりじゃ……」
本当に怒らせてしまったのではないか。
そう思って、彩花はおそるおそる響を見る。
しかし響は怒らなかった。
頭を押さえたまま、彩花を見ていた。
そして、ふっと表情を緩めた。
「……なるほど」
「な、何がですか?」
「君は意外と気が強いんだな」
「響さんが変なことをするからです」
彩花がそう言うと、響は小さく笑った。
それから、ゆっくりと彩花に近づいた。
彩花が一歩下がる。
けれど響はそのまま彼女を抱きしめた。
「……響さん?」
彩花の身体が固まった。
響の腕は思っていたよりも温かかった。
「気が強い女性は嫌いじゃない」
低い声が耳元で聞こえた。
彩花はしばらく何も言わなかった。
さっきまで鞭を振っていた男と、今こうして自分を抱きしめている男が、本当に同じ人間なのか分からなくなっていた。
それでも、彩花は少しずつ身体の力を抜いていった。
響の胸に頬をつける。
その鼓動は、思っていたよりずっと普通だった。
夜は静かだった。
まるで、この部屋で起きていることを誰にも知らせるつもりがないかのように。




