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屋敷の夜は静かだった。広い敷地のどこかで風が木の葉を揺らしていたが、それ以外にはほとんど音がなかった。時計の針が進む音さえ、この部屋では少し遠くにあるように聞こえた。
大きな寝室のベッドに、斎藤響と妻の彩花は並んで横になっていた。
響は黒い髪を枕に預け、天井を見ていた。切れ長の目は暗がりの中でも妙に冷静に見えた。いつものように眼鏡をかけたままだった。
隣にいる茶髪のロングヘア、綺麗な顔立ちをした彩花という名の女性は、しばらくそんな響の横顔を眺めていた。
「響さん」
「なんだ?」
「眼鏡、外していいですか?」
響は少しだけ顔を向けた。
「ああ。かまわない」
彩花は微笑んだ。
響は何も言わなかった。やがて小さく息を吐き、好きにすればいいというように目を閉じた。
彩花は指先で眼鏡のフレームをつまみ、ゆっくりとそれを外した。
眼鏡がなくなると、響の顔は少しだけ違って見えた。
彩花はそれを見つめた。
一週間前まで、彼女にとって響は婚約者だった。
そして今は夫として、同じベッドに入っている。
二人は財閥家の長男と令嬢という立場にあり、二つの家にとって、この結婚はとても都合のいいものだった。誰もそれを不思議には思わなかった。大きな家同士の結婚には、恋愛とは別の種類の理由がいくつもある。
けれど彩花にとっては、それだけではなかった。
彼女は響に、一目で恋をした。
初めて会った日のことを、今でも覚えている。
ほとんど何も話していないのに、彼のことが気になった。冷たそうに見える目も、あまり笑わないところも、むしろ彼女には魅力的だった。
だから、婚約の話が出たとき、彩花は嬉しかった。
その気持ちは今も変わっていない。
彩花は眼鏡をサイドテーブルに置いた。
「響さん…。こうして一緒に寝るの、まだ少し変な感じがします」
「じきに慣れるだろ…」
「はい」
彩花は小さく笑った。
「私、響さんと妻として、これから素敵な女性になれるよう頑張ります」
「ああ…」
響の返事は短かった。
彩花は彼の横顔を見つめた。
その横顔には、彼女の知らない何かがあった。
響は財閥家の長男として生まれた。
家の名前を背負い、家のために生きることを求められてきた。
だから彼は、好きでもない相手との結婚を選んだ。
それが必要だったからだ。
彩花は、そのことを知らない。
彼女はただ、隣にいる夫を見つめていた。
好きな人と同じベッドで眠れることを、静かに喜んでいた。
響は目を閉じた。
彩花には見えないところで、その表情からほんの少しだけ温度が消えていた。
屋敷の外では風が吹いていた。
しばらくして、響が静かに口を開いた。
「一つ、君に聞きたい」
「なんですか?」
彩花は響の方を向いた。
響は天井を見たまま、しばらく何も言わなかった。
それからゆっくりと顔を彩花へ向けた。
「君は俺をどう見てる?」
彩花は少し考えたあと、話し始める。
「…かっこよくて、頼りがいがあって、財閥家の長男としてふさわしい方だと思っています」
その言葉のあと、部屋には長い沈黙が落ちた。
遠くで時計の針が動いていた。
響は彩花を見つめていた。
「真逆だ」
「え?」
「俺は、君が思っているような男じゃない」
彩花の表情から、わずかに笑みが消えた。
響はベッドの上で身体を少し起こした。
「俺の妻になったからには、夫である俺のことをよく知っておくべきだ」
その声は静かだった。
怒っているわけでもない。
脅しているわけでもない。
ただ、事実を伝えているだけのようだった。
彩花は何も答えなかった。
響の顔を見つめながら、彼女は初めて思った。
この人には、自分の知らない顔があるのかもしれない。
けれど、それがどんな顔なのか、まだ彼女には分からなかった。




