第5章 雨上がりの告白
1
放課後の冷たい風が吹き抜ける校舎裏。
拓人のあまりにも不器用で、暴力的なまでの「正論」を叩きつけられた美緒は、ぐしゃぐしゃになった顔を袖で乱暴に拭いながら、自分の部屋へと駆け戻っていた。
自宅のベッドに倒れ込み、枕に顔をうずめる。
心臓がまだうるさいほどにバクバクと鳴り響き、熱を持った目頭から涙が止まらなかった。
(なんなの……あいつ……!)
頭の中は「?」と怒りと恥ずかしさで埋め尽くされていた。
誰にも見せないように、必死で隠していたはずの傷口。あの日の夕暮れ、グラウンドの隅で零した涙も、一人になった昇降口で外した「仮面」のことも、すべてあの野球部の男子――桐谷拓人にはお見通しだったというのか。
(私の何を知っていうのよ……! 私の気持ちなんて、あいつに何が分かるっていうの……!)
怒りに任せて枕を叩きつけようとしたが、その手の動きがふとピタリと止まる。
――『いつまでそんなやつのために泣いてんだよ!』
拓人のあの、怒りに満ちた、でもどこか必死で、痛切に揺れていた瞳が脳裏に蘇る。
あれは、ただ面白半分で茶化すような目じゃなかった。見ず知らずの他人が踏み込んでいい領域を超えて、真正面から自分の痛みに殴りかかってくるような、あまりにも不器用で、あまりにも真っ直ぐな怒りだった。
(どうして……あんなに怒るの……?)
胸の奥が、ヒリヒリと痛む。
自分でも気づかないうちに、ずっと心の奥底に押し殺していたはずの記憶が、波のように押し寄せてきた。
――そう、あの日のことだ。
美緒がずっと、心の支えにしていた、あの少年のことを。
2
翌日の放課後。
拓人は昨日の大失態のせいで、朝から校内で美緒の姿を見かけるたびに心臓が縮み上がるような思いをしていた。
(やっちまった……完全に嫌われたな。あれじゃあただの変質者を超えて、最悪のクラスメイトだ……)
自席で頭を抱え、鉛筆を転がしていると、ふと教室の扉の向こうに人影が揺れた。
美緒の親友である女子生徒が、拓人の机の横にツカツカと歩み寄ってきたのだ。その表情は、どこか険しい。
「ねえ、佐伯くん。ちょっといい?」
「……え? あ、ああ、なんだよ」
「小川がさ、裏の旧校舎の裏で待っててって。どうしてもあなたに話があるって言ってるから」
――旧校舎の裏。
クラスメイトの視線が集まる中、その指定された場所に向かう拓人の足取りは、まるで処刑台に向かう罪人のように重かった。
(昨日あんなに泣かせておいて、今度はどんなお説教が待っているんだ……。いや、ボコボコにされても文句は言えねえ……)
冷や汗を拭いながら旧校舎の裏に回り込むと、そこにポツンと立っていたのは、目を少し赤く腫らした小川美緒だった。
夕暮れの薄暗い光の中、美緒はぎゅっと両手を握りしめ、覚悟を決めたような、でもどこか震えた声で拓人を迎えた。
「……来てくれたんだ」
「あ、ああ……。昨日は、その……悪かった。俺、ちょっと頭に血が上っちまって、余計なこと言って……」
拓人がバツが悪そうに謝罪の言葉を口にすると、美緒は小さく首を横に振った。うつむいていた顔が、ゆっくりと上げられる。その瞳には、昨日までの「完璧な作り笑い」も、怯えの色もなかった。ただ、まっすぐに拓人を見据える強い光があった。
「謝ってほしいわけじゃないの。……昨日、佐伯くんが言ったこと。私、ずっと考えてたの」
美緒の声は微かに震えていたが、一言一言を確かめるように紡がれていた。
「なんで私のことであんたがそんなに怒るのかって、ずっと思ってた。でも……私、分かんないから、ちゃんと言わなきゃって思ったの。私のこと、勝手に知ったふうなこと言われたから……だから、全部話すね」
美緒は小さく息を吸い込み、ぽつり、ぽつりと語り始めた。
「……私ね、ずっと好きだった人がいたの。幼なじみの、颯真って言うんだけどさ」
――颯真。
聞いたことのないその少年の名前が、美緒の口から紡ぎ出される。
「颯真はね、学校で全然人気者とかじゃなかったの。クラスの中心でいつもワイワイやってるタイプでもないし、声も小さいし、目立つのが苦手で、周りからはちょっと地味に見られてるような、そんな男の子だったのね」
美緒の表情が、ふっと柔らかくなる。それは、昨日まで見せていたどの笑顔とも違う、どこか遠くを懐かしむような、温かいせせらぎのような穏やかな表情だった。
「私、昔から人の目を気にしちゃう性格で、クラスでもいつも笑ってなきゃいけないって気負いすぎて、学校にいるだけで息が詰まりそうになってたの。でもね、颯真と一緒にいるときだけは、無理して笑わなくてよかったの。あいつの前では、ただの私でいられた。変に気取らなくても、くだらないことでボソッと笑い合えて……あの人といると、世界で一番安心できたんだぁ」
その言葉の響きに、拓人の胸がチクリと痛んだ。
それは嫉妬とも少し違う、美緒が大切にしてきた「温かい居場所」を突きつけられたような、奇妙な疼きだった。
「なのに……」
美緒の声が、ふっと細くなった。潤んだ瞳に、再び薄い涙の膜が張る。
「なのに、あいつは……私じゃなくて、別の女の子のところに行っちゃったの。転校してきたちょっと不思議な、守ってあげたくなるような女の子に目を奪われて、私の前からいなくなっちゃった。……私、目の前でフラれたんだよ。あんなに安心できた場所が、一瞬で音を立てて消えちゃったの」
夕暮れの風が、二人の間を冷たく吹き抜ける。
美緒は自分の両腕をぎゅっと抱きしめ、身を震わせた。
「だから……私、怖かったの。また一人ぼっちになるのが怖くて、誰も私の本当の傷になんて気づいてほしくなくて、だから必死で笑って、何でもないフリをして、仮面を被って生きてたの……。なのに……」
美緒はぐっと顔を上げ、潤んだまっすぐな瞳で拓人を射抜いた。
「なのに、佐伯は……何の関わりもないはずのあんたは、私が隠そうとした泥だらけの惨めな部分を、わざわざ引っ張り出してきて、勝手に怒って、泣かせた……!」
美緒の言葉に、拓人はただ立ち尽くすしかなかった。
反論の言葉など一つも出ない。自分がどれほど無神経で、どれほど身勝手な行動をとっていたのかが、美緒の言葉の端々から痛いほど突き刺さってきた。
「……ごめん。本当に、俺は……」
拓人がうつむきかけ、謝罪の言葉を続けようとしたその瞬間だった。
「――でもね」
美緒の震える声が、拓人の言葉を遮った。
「……でも、嬉しかったの」
「え……?」
拓人がハッとして顔を上げると、目の前の美緒は大粒の涙をぽろぽろと零しながら、しかしどこか晴れやかな、切なくも美しい顔で微笑んでいた。
「あんな風に、私のために本気で怒鳴ってくれた人なんて、今まで一人もいなかったから。私の作った笑顔じゃなくて、奥底にあるボロボロの私を見て、許せないって言ってくれた人なんて、誰もいなかったから……」
美緒は両手で自分の頬を拭い、ぐっと拓人に一歩近づいた。
「ずるいよ、佐伯くん。あんた、普段は野球ばっかで全然こっち見てないくせに、なんであんなときだけ、私の全部を見透かしたような顔でするの……?」
その問いかけは、責め立てるものではなかった。
それは、凍りついていた美緒の心の奥底に、拓人の不器用な熱がしっかりと届いた証拠だった。
拓人は自分の胸の鼓動が、もうどうしようもないほどに高鳴っているのを感じていた。
頭の中で、軍師 周瑜(スマホのAI)の冷静な分析ボイスなんてとっくに消え去っている。乱世の覇王気取りだった自分のなかに残っていたのは、ただ一人の少女の涙を止めたい、その曇った顔を二度とさせたくないという、あまりにも熱くて純粋な衝動だけだった。
「……小川」
拓人は一歩前に踏み出し、今度は怯えることなく、真っ直ぐに美緒の瞳を見つめ返した。
「俺は……お前が別のやつのことで泣いてるのが、我慢ならなかったんだよ」
「……え?」
「お前がどんなに不器用でも、無理して笑ってようが、そんなの知ったことかと思ってた。でも……あんな風に影で一人で泣いてるお前を見ちまったらさ……もう、放っとけなくなっちまったんだよ。
お前のその仮面を剥がしたいわけじゃない。ただ……お前が、小川のせせらぎみたいに、心の底から穏やかに笑ってるところを、俺は見たかったんだ……!」
自分の口から飛び出した言葉のあまりの直球さに、拓人自身が一番驚いていた。
顔がみるみるうちに熱くなり、耳たぶまで真っ赤に染まっていくのが分かる。
美緒は目を見張り、ポカンと口を開けたまま拓人を見つめていた。
そして、その頬に伝わっていた涙がふっと止まり、彼女の顔に――今日、初めての、そして誰にも作られたものではない、あまりにも自然で、あたたかな笑顔が浮かんだ。
それはまるで、長かった冬の終わりに、冷たい雪解け水がサラサラと音を立てて流れ出すような、小川のせせらぎそのものの美しい笑顔だった。
「……なにそれ。それって、まるで……」
美緒はうっすらと頬を赤らめながら、恥ずかしそうに目を伏せた。
その瞬間、拓人の頭の中で、カチリとすべてのパズルが噛み合った。
自分のこのどうしようもない焦燥感も、他の男への激しい嫉妬も、彼女を泣かせたやつへの許せない怒りも、そして今、目の前にある彼女の笑顔を見て胸が締め付けられるように愛おしいと感じるこの感情の正体も――。
(……あぁ、そうか。俺は……)
自分の行動のすべてが、使命でも軍師の作戦でもなく、ただ一人の少女への止めどない「恋」だったことに気づいてしまった瞬間、拓人の頭からプシューと完全に湯気が吹き飛んだのだった。
自分の気持ちでさえ気づかない思春期あるあるを描いてみました。




