第4章 崩れる笑顔と残酷な真実
1
放課後の空が、少しずつあかね色から深い群青色へと染まり始める頃。
拓人は、野球部の全体練習を終えたその足で、部室の片隅にポツンと座り込んでいた。
「はぁ……」
ユニフォームの裾をパタパタと手で扇ぎながら、拓人は深々とため息をつく。
あれから、昇降口の前で美緒に「話がある」と声をかけたものの、結局は周囲の好奇の視線に耐えかねた美緒から「ごめん、部活が始まるから!」と、綺麗にスルーされてしまったのだ。
不審者スレッドの住人のような格好で突っ立っていた自分を思い出すと、今でも頭から湯気が出そうになる。
「やはり、正面突破の戦術に致命的なバグがあったか……」
拓人はポケットからスマホを取り出し、画面をタップした。
起動するのは、信頼の置ける我が軍師――スマホのAI(周瑜)である。
『軍師・周瑜よ。聞いてくれ。我が突撃作戦は見事に迎撃された。ターゲットは逃走し、残されたのは周囲からの「やっぱりあいつ変だぞ」という冷ややかな視線だけだ。この戦況をどう見る?』
数秒のロード時間の後、冷徹なテキストが返ってくる。
『分析結果。当然の結果と言えます。事前の潜伏工作としての信頼残高がマイナスであるにもかかわらず、急に本丸へ突撃したため、敵の防衛本能を過剰に刺激しました。一時撤退および、作戦の抜本的な見直しを強く推奨します』
「撤退だと? 覇王・孫策の辞書に敗走の文字はない!」
拓人はスマホに向かって不満をぶつけるが、心の中では軍師の言う通り「このままでは本当にただのヤバい奴として出入り禁止になる」という焦りが渦巻いていた。
そのとき、部室の入口のドアが「ガラッ」と乱暴に開いた。
「おーい、拓人! まだ着替えてねえのかよ?」
そこに現れたのは、汗だくの山田だった。その隣には鈴木もいる。二人は明日からの遠征のための荷物をまとめながら、ゲラゲラと笑い合っていた。
「おう、今から着替えるところだ。……でお前ら、なんだかやけにはしゃいでやがるな」
拓人が怪訝な顔をすると、山田はニヤニヤしながらタオルで頭をゴシゴシと拭いた。
「いやさ、さっき教室に忘れ物取りに行った帰りにさ、女子たちのグループが噂話してんのが聞こえてさ。お前も知ってるだろ、小川美緒のグループだよ」
その名前が出た瞬間、拓人の手がピタリと止まった。
――小川美緒。
「小川がどうかしたのかよ」
拓人はできるだけ平然を装いながら、ローカットのスパイクの紐を解き始めた。だが、その声のわずかな強張りに気づいたのか、山田は面白そうに声を潜める。
「いやさ、あいつのあのいつもニコニコしてる笑顔の理由がさ、ちょっとした『裏事情』つきだったらしいぜ」
「……裏事情?」
「ああ。なんでもさ、小川って去年の秋口くらいまで、ずっと一緒につるんでた幼なじみの奴がいたらしいんだよ。名前は……ええと、たしか京子……じゃなくて、男のやつだから、ええとなんだっけな、まあいいや。とにかく、そいつに盛大にフラれたんだとさ!」
――ズンッ。
胸の奥の底が、急に冷え込むような感覚だった。
拓人の手が、スパイクの紐を握ったまま動かなくなる。
「フラれた?」
「そうそう。小川はずっとその幼なじみのことが好きだったらしいんだけど、向こうは別の転校生……っていうか、なんか別の世界に行っちまったような女の子に夢中になっちまって、小川の気持ちに全然気づかなかったらしくてさ。結局、小川は目の前で振られちまったんだと」
山田は「女の友情って怖いよなー」と軽い調子で続ける。
「だからさ、最近小川が学校ですごい明るく振る舞って、ケラケラ笑ってるのって、実はその失恋のショックを周りに悟られないための『カモフラージュ』だったらしいぜ。女子の間じゃ『あの子、本当はまだ引きずってるんだよね……切なすぎる……』ってちょっとした話題になってるんだとよ」
「……」
拓人は何も言えなかった。
頭を硬いバットで殴られたような、めまいがするほどの衝撃が全身を駆け抜ける。
(そうだったのか……)
昨日、グラウンドの隅で見た、あの痛々しいほど切ない涙。
誰もいなくなった昇降口で、一瞬にして光が消え去った、あの孤独な横顔。
そして、クラスの中で無理をして周囲に合わせて笑っていた、あの「仮面」。
そのすべての理由が、今、残酷なまでに綺麗に繋がってしまった。
彼女が泣いていたのは、作り笑いをしていたのは、別の男――幼なじみのせいで心を引き裂かれ、ボロボロになっていたからだ。
「まあ、男のせいであんなに無理して笑うなんて、女も大変だよなー。なあ、拓人?」
山田と鈴木は、それ以上深く追求することもなく、自分の荷物を抱えて「じゃ、先に帰るわ!」と部室を飛び出していった。
静まり返った部室に、夕暮れの光だけが冷たく差し込んでいる。
拓人はその場に座り込んだまま、ぐっと拳を握りしめた。
爪が手のひらに食い込み、痛むほどの強い力で。
(あんなに笑ってる裏で……あいつはまだ、あんなやつのために泣いてるのかよ……!)
胸の奥底から、言語化できない黒々とした感情が一気に沸き上がってきた。
それは恐怖でも、戸惑いでもない。
他の男のせいで傷つき、その痛みを誰にも言えずに一人で「笑顔の仮面」の下に隠し続けている美緒に対する、どうしようもないほどの怒りと、そして――それ以上に耐えがたい、激しい疼きだった。
2
翌日の昼休み。
拓人は相変わらず自分の席に座っていたが、昨日の夜から頭の中は完全に沸騰していた。
(許せねえ……)
スマホの画面を開き、半ば八つ当たり気味に軍師へメッセージを叩き込む。
『軍師・周瑜! 緊急作戦変更だ! ターゲットが隠し持っていた「過去のトラウマおよび失恋の十字架」のデータが判明した! 彼女は別の男のせいで傷つき、その痛みを隠すために仮面を被っている! この非道な状況を打破するため、最善の攻撃戦術を直ちに算出しろ!』
画面の向こうのAIの周瑜は、いつも通り冷静に、だがどこか呆れたようなテキストを返してきた。
『……主よ、興奮しすぎです。対象の背景にある過去の傷が判明したからといって、あなたが感情的に突撃するのは極めて悪手です。そもそも、彼女がどの男に恋をしていようが、それは彼女の個人的な領域であり、あなたの管轄外です。なぜそこまで怒りを覚えるのですか? データ補正のため、あなたのその過剰な反応は――』
「うるさい! 管轄外だろうが何だろうが知ったことか!」
拓人は思わず声を出しそうになり、慌てて手で口を抑えた。周囲のクラスメイトたちがチラとこちらを見たが、すぐに自分たちの会話に戻っていく。
拓人はスマホの画面を睨みつけ、心の中で歯噛みした。
(あいつが、他の男の名前を思い出して陰で泣いている……その事実だけで、俺の腹の底がこんなにもぐつぐつと煮え返るなんて……!)
頭では「ただの同級生だ」「俺はオブザーバーだ」と言い聞かせようとするのに、心臓の鼓動は制御不能なほどに跳ね上がっている。
他の男の影に怯え、その残影におびき出されるようにして作り笑いを浮かべる美緒の姿を想像するだけで、居ても立ってもいられなかった。
ふと、教室の窓際に目をやる。
そこには、今日もいつものように友人たちに囲まれ、キラキラとした笑顔でケラケラと笑う小川美緒の姿があった。
――あれが、嘘の笑顔だと知っているのは、世界で自分だけだ。
その事実が、たまらなく誇らしくもあり、同時に残酷で、胸が締め付けられるように痛かった。
(もう我慢しなくていい。あんなやつのために、お前がこれ以上無理して笑う必要なんてどこにもないんだよ……!)
拓人のなかで、理性のタガが完全に音を立てて外れかけていた。
軍師の冷静な忠告など、今の彼の沸騰した脳内には1ミリも届かない。
ただ、「あいつの本当の笑顔を見たい」「あいつを縛るその呪縛を、俺の手で引き剥がしたい」という強烈な衝動だけが、彼の全身を支配していたのだった。
3
放課後。
部活が始まる前の、校舎裏の駐輪場脇。人通りの少ないその場所で、拓人は待ち構えていたかのように美緒の進路に立ち塞がった。
「――っ!」
突然現れた拓人の姿に、美緒はビクリと肩を震わせ、足を止めた。
その瞬間、彼女の顔からいつもの完璧な「明るい笑顔の仮面」がスッと引き剥がされ、戸惑いと、どこか警戒の色を帯びた素の表情に戻る。
「……佐伯くん? なに、また……」
美緒は少し後じさりするように身構えた。ここ最近、妙に自分を観察してきたり、いきなり声をかけてきたりするこの野球部の男子に対し、彼女なりに警戒心を抱いていたのだろう。
だが、今の拓人の目には、そんな美緒の怯えすらまともに映っていなかった。
頭の中にあるのは、昨夜聞いた「あの男のせいで彼女が泣いている」という事実だけだ。
「小川。お前に話がある」
拓人の声は、自分でも驚くほど低く、硬く張り詰めていた。
「え……あの、私、これから部活の友だちと待ち合わせてるから……」
「そんなのどうでもいい!」
「っ……!」
拓人が突然声を荒らげたものだから、美緒は文字通り息を呑み、その場に釘付けになった。
夕暮れの光が、二人の間に長い影を落とす。駐輪場のフェンスを伝う風が、やけに冷たく感じられた。
拓人は一歩、また一歩と美緒との距離を詰めた。
逃げ場を失った美緒の瞳が、恐怖と動揺で揺れている。その顔を見るたび、拓人の胸の奥で、言語化できない熱いものが激しく波打った。
「お前さ……いい加減にしろよ」
「……え? なにが……?」
美緒がかすれた声で聞き返す。
その無防備な、どこか怯えたような顔を見ていると、拓人のなかに溜まっていた感情が一気に決壊した。
「いつまでそんな顔してごまかしてんだよ!」
拓人は思わず、声を荒らげて怒鳴りつけていた。
「……っ!?」
美緒は目を見開き、信じられないものを見るような目で拓人を見上げた。
「昨日も、その前も……! お前、クラスではあんなにケラケラ楽しそうに笑ってるくせに、一人になった途端、死んだような顔して……! 隠れて泣いてるじゃねえか!」
「なっ……なんで、そんなこと……!」
美緒の顔から血の気がサーッと引いていくのが分かった。
自分の隠しておいた傷口、誰にも見られたくなかった一番醜くて弱い部分を、よりにもよって一番関わりの薄いはずの野球部の男子に、こんな真正面から暴かれたのだ。恐怖と羞恥心で、美緒の小さな体がわずかに震え始める。
だが、拓人はもう止まれなかった。止まれるはずがなかった。
「お前がいつまでも、あんな、お前のことなんか見てねえ別の男のせいで……そんなやつのために、いつまでも引きずってボロボロになってるからだろ!!」
その言葉の瞬間、周囲の空気が凍りついた。
美緒の瞳が、大きく見開かれる。
その表情は、怒りでも警戒でもなかった。――すべてを言い当てられた絶望と、あまりにも残酷な真実を突きつけられた少女の、完全なフリーズだった。
「……っ……なんで……なんで、そんなこと言うの……」
美緒の震える声が、夕暮れの風にかき消されそうになる。
彼女の目から、みるみるうちに大粒の涙があふれ出し、とめどなく頬を伝い落ちた。
それは、昨日グラウンドの隅で見たものと同じ、いや、それ以上に深く、激しい絶望の涙だった。
「……っ!」
その涙を見た瞬間、拓人の脳内で沸騰していた怒りが、一瞬にして音を立てて消え去った。
代わりに胸を満たしたのは、表現しようのない圧倒的な後悔と、冷たい氷水をぶっかけられたような激しい動揺だった。
(……俺は、いったい……何を言ってるんだ……?)
自分が相手を立ち直らせるためでも、笑顔にするためでもなく、ただ自分の感情に任せて、彼女の一番触れてほしくない「生傷」を力任せにえぐり出してしまったという現実が、ようやく脳髄に追いつく。
「お、小川……違う、俺は……その……」
拓人は慌てて手を伸ばそうとしたが、その震える手が、まるで恐ろしいものを見るかのように美緒に拒絶されるのを恐れて、空中でピタリと止まった。
美緒は潤んだ瞳で拓人を一瞥すると、もうこれ以上耐えられないと言わばかりに、その場でくるっと背中を向けた。
「……ほっといてよ!」
それだけを叫ぶと、美緒はぐしゃぐしゃになった顔を袖で乱暴に拭い、夕暮れの校舎の影へと走り去っていった。
「あ……小川……っ!」
手を伸ばした空には、冷たい風が吹き抜けるだけだった。
残された拓人は、誰もいなくなった静まり返った駐輪場で、自分の震える拳をただただ見つめるしかなかった――。




