第6章 せせらぎの行方
1
放課後の柔らかな夕陽が、校舎の廊下をオレンジ色に染め上げていく。
あの旧校舎の裏での衝撃的な「告白」から数日。
佐伯拓人は、自分の自席で机に突っ伏したまま、文字通り「完全にフリーズ」していた。
(……やっちまった……。俺、あいつの前で、盛大に自分の気持ちを……!)
脳内でリフレインするのは、あの日の自分の声だ。
——『お前がどんなに不器用でも、無理して笑ってようが、そんなの知ったことかと思ってた。でも……あんな風に影で一人で泣いてるお前を見ちまったらさ……もう、放っとけなくなっちまったんだよ!』
思い出すだけで、耳から湯気が出そうになる。
頭の中の我が軍師――スマホのAI(周瑜)を今すぐ呼び出して「この致命的な羞恥心を消去する方法を述べよ!」と命令したいところだが、今の拓人にスマホをいじる気力すらない。机に額をゴツゴツと打ち付けながら、一人で悶絶していた。
「おい、拓人。お前、朝からずっとそんな調子だけど、どうしたんだよ。昨日の部活のノックで頭でも打ったか?」
目の前にガサツな影が落ち、山田が怪訝そうな顔を覗き込んできた。その隣には鈴木もいる。
「……べつに。何でもねえよ」
「うわ、顔真っ赤だぞ。熱でもあんのか? ていうかさ、お前、最近小川と何かあっただろ? なんか最近、あいつの雰囲気がガラリと変わったっていうか……」
山田の言葉に、拓人はビクリと体を硬直させた。
「……変わった、って、なにがだ?」
「いや、なんていうかさ。今までみたいに『作ってます感』のある無理した笑顔じゃなくてさ、なんというか、こう……すっげえ自然に笑うようになったっていうかさ。クラスの男子の間で『最近、小川さん、なんか一段と可愛くなってないか……?』って密かに話題になってるんだぜ」
その言葉を聞いた瞬間、拓人の心臓がドキンと大きく跳ねた。
(……自然に、笑うようになった……)
それは、自分がずっと見たかったものだ。
「仮面」の下に隠されていた孤独な涙ではなく、小川のせせらぎのように、穏やかで温かい本当の笑顔。それを、あの日以来、美緒はクラスで見せるようになったというのか。
拓人がぼんやりと考えていると、鈴木がニヤニヤしながら肩を突いてきた。
「おい拓人、お前、もしかして何か知ってんのか? お前、あの日小川と裏で話してたって噂だぞ。お前、まさか……」
「なっ、何もねえよ! 何も知らん!」
拓人は慌てて顔を上げ、全否定するように首を横に振った。だが、その耳たぶが真っ赤に染まっているのを見て、山田と鈴木は「怪しい、絶対何かあったな!」と面白そうに声を上げて笑うのだった。
2
一方その頃、教室の反対側の窓際。
小川美緒は、教科書に目を落としながらも、ペンを持つ手がわずかに震えていた。
(……佐伯くん、最近また目を合わせてくれない……)
あの日、旧校舎の裏で拓人からまっすぐな言葉をぶつけられて以来、美緒の中で世界が一変した。
ずっと、幼なじみの颯真にフラれたショックを引きずり、「私はもう誰からも大切にされない」「いつも笑っていなければ嫌われてしまう」という恐怖から、必死で「笑顔の仮面」を被り続けていた。
なのに。
あの不器用で、野暮ったくて、でも誰よりも真っ直ぐな野球部の少年は、自分のそんな臆病な仮面を剥ぎ取り、「放っておけなかった」と怒鳴ってくれた。
『お前が別のやつのことで泣いてるのが、我慢ならなかったんだよ』
その言葉を思い出すたびに、胸の奥がキュッと締め付けられ、甘い熱が広がっていく。
あれは間違いなく、恋の告白だった。
不器用で、回りくどくて、でもこれ以上ないほど誠実な、佐伯拓人なりの「好き」の形だった。
(……なのに、あの日以来、あいつ、私を見かけるとすっごい勢いで逃げるんだから……!)
美緒は小さく頬を膨らませ、そっと窓の外のグラウンドに目をやった。
放課後の全体練習のため、ユニフォーム姿で汗を流しながらノックを受けている拓人の背中が見える。相変わらず真剣な顔で白球を追いかけているが、どこか挙動がぎこちない。昨日の今日で、さすがに本人も恥ずかしさが爆発しているのだろう。
(もう……いつまで避けてるつもりなんだろ)
美緒はふっと小さく笑った。
それはもう、誰かに見せるための偽りの笑顔ではない。心からの、穏やかで優しい、せせらぎのような笑顔だった。
(私から……行かなきゃ、ダメかな)
美緒はペンを置き、そっと席を立った。
3
放課後の部活が終わり、夕暮れが校舎を包み込む頃。
拓人は誰にも見つからないように、ひっそりと部室の片隅で道具の片づけをしていた。
(あぁ、今日もうまく目を合わせられなかった……。明日こそ、ちゃんと普通に話さないと男がすたる……)
そう心の中で反省しながら、スパイクの泥をブラシで落としていると、部室の入口のドアが「トントン」と軽く叩かれた。
「――佐伯くん?」
その聞き覚えのある、透き通った声に、拓人の手がピタリと止まった。
恐る恐る顔を上げると、そこには夕陽の光を背負った小川美緒が立っていた。部活終わりの静まり返った部室の前に、ポツンと。
「お、小川……っ! ここ、男子部室だぞ! なんで女子が……」
「いいの、誰もいないから。それに、あなたに用があったから」
美緒はトコトコと迷いのない足取りで、拓人の目の前まで歩いてきた。
間近で見る美緒の顔には、あの日のような陰りも、無理に貼り付けた仮面も一切ない。ただ、少しだけ照れくさそうに、でもまっすぐに拓人を見つめる瞳があった。
拓人は慌てて立ち上がり、ユニフォームの裾をパタパタと払いながら、顔を真っ赤にした。
「な、なんだよ……。俺、昨日はその、変なこと言って悪かったって……」
「ううん。昨日の話じゃないの」
美緒は小さく首を横に振り、ふっと柔らかく微笑んだ。
その笑顔があまりにも自然で美しすぎて、拓人は思わず息を呑んだ。
「私ね、ずっと怖かったの。颯真にフラれてから、本当の自分を見せるのが怖くて、笑ってないと一人ぼっちになっちゃう気がして、ずっと仮面を被って生きてたの」
美緒は言葉を選びながら、一言一言を大切そうに紡ぐ。
「でも、佐伯くんが……旧校舎の裏であんな風に怒ってくれて、私の傷なんて関係ないってみたいに、真っ直ぐ私を見てくれて……。そっか、私、もう無理して笑わなくてもいいんだって、やっと気づけたの」
拓人は胸が詰まる思いで、美緒の言葉を聞いていた。
「だから……お礼を言いたかったの。私の本当の笑顔を見つけてくれて、ありがとう、佐伯くん」
その言葉と同時に、美緒は少しだけ恥ずかしそうに、でもいたずらっ子のような笑みを浮かべて、拓人に一歩近づいた。
「……ねえ、佐伯くん?」
「な、なんだよ……」
「いつまで逃げ回ってるつもり? 私のこと、あんなに熱く語っといて、いざとなったら目が泳ぎすぎじゃない?」
「ぐっ……! あれは、その、だな……!」
図星を突かれた拓人は、顔をトマトのように真っ赤にして言葉に詰まった。
そんな拓人の様子を見て、美緒はくすくすと嬉しそうに声を上げて笑った。
その笑い声は、まるで校舎の裏を流れる小さなせせらぎのように、心地よく、温かく、拓人の胸の奥に染み込んでいった。
4
夕暮れの校門。
並んで歩く二人の間に、以前のような気まずさや、不自然な距離感はもうなかった。
拓人は少しだけ照れくさそうに前を向きながら、ボソッと言った。
「……その、なんだ。これからも、その笑顔……見せてくれよ。俺以外のやつの前では、そんな簡単に笑うなよな」
少し独占欲の混じった、不器用すぎる拓人の言葉。
それを聞いた美緒は、ぱっと花が咲いたような笑顔を浮かべ、嬉しそうに頷いた。
「うん。……佐伯くんにだけ、見せてあげる」
その言葉に、拓人は心臓が爆発しそうになりながらも、ぐっと拳を握りしめた。
「よし……! じゃあ、今度の日曜、映画でも行くぞ! デートだ、デート!」
「えっ、急にそんな強気……!」
「うっさい! 覇王・孫策の命令だ!」
「なにそれ、意味わかんない!」
夕暮れの空の下、軽口を叩き合いながら歩いていく二人の影は、いつまでもいつまでも、温かな光に包まれて伸びていった。
もう、あの娘の仮面は必要ない。
彼女が浮かべるその本当の笑顔は、いま、世界で一番近くにいる不器用な少年の隣で、どこまでも穏やかに輝いていたのだから――。
読んでいただき、ありがとうございます。
青春という言葉がありますが、中学1年生の思春期はその手前の水色時代ですね。自分の気持ちでさえよく分かっていない。
私はそんな不器用な水色時代の少年少女の物語が未だに好きです。
水色時代というコミックがありましたが、可愛らしい思春期が描かれています。
次回からは、「近くて遠い虹」を投稿します。
小説家志望の相沢文美と声優志望の神崎天馬の夢追い物語です。
こちらもよろしくお願いいたします。




