第2章 AIの周瑜と少女マンガ
1
「――でさ、昨日『きらめきパフェ』の最新話読んだ? やばくない!? あのヒーローの目つき、絶対反則だって!」
「わかる! しかもあの絶妙な距離感よ。あんなの現実でされたら一発アウトでしょ!」
昼休みの教室。女子たちの黄色い歓声が混じる一団の横を、拓人は無言で通り過ぎて自分の席へと戻る。
しかし、耳に飛び込んできたそのワードに、拓人の足がピタリと止まった。
(……きらめき、パフェ? また少女マンガの話かよ)
グラウンドの隅で見せた美緒の痛々しい横顔が脳裏から離れない拓人にとって、今の彼は「どうすればあいつの仮面を剥がし、本当の笑顔を取り戻せるか」という重大なミッションの遂行中である。
しかし、生憎と恋愛経験ゼロの野球バカ。脳内にあるのは「ノックの捕球体勢」と「ランナー一塁のサインプレー」のデータしかなく、女子の心を救うための戦術なんて皆目見当もつかない。
そこへ、おにぎりを頬張りながら、同じ野球部のチームメイトである山田がガサツに近づいてきた。おいおい、と拓人の机を軽く叩く。
「なあ拓人、お前さっきから難しい顔してどうしたんだよ。昨日の練習の反省会でも引きずってんのか? 腑抜けた面してると監督に怒られるぞ」
「……べつに、何でもねえよ」
「ほんとかよ。なんか最近、お前やけにキョロキョロしてさすらいの用心棒みたいな目してっけど」
山田がニヤニヤと笑いながら、さきほど女子たちが群がっていた一角をアゴでしゃくった。
「そういやさ、女子ってすげーよな。あんな分厚い漫画に夢中になりやがって。お前、知ってるか? 最近クラスの女子全員が『きらめきパフェ』って少女マンガにハマってて、なんでも『頭ポンポン』だの『壁ドン』だのって、本気でキュンキュンしてやがるんだぜ。男からしたら意味わかんねえよな!」
その言葉に、拓人の耳がピクンと反応した。
――頭ポンポン。壁ドン。少女マンガ。
(待て……。それが、女子の心を攻略するための……いわゆる『戦術』なのか……?)
拓人が食いつくような目で山田を見ると、すかさず別のクラスメイト――同じく野球部の鈴木が、ぐっと顔を割り込ませてきた。
「は? お前ら、何少女マンガの話しちゃいってんだよ。男がそんなもん読むわけ……いや、まあ」
鈴木は急に声を潜め、周囲をキョロキョロと窺うと、気まずそうにボソッと言った。
「……実はさ、俺の部屋、妹がいるだろ。あいつがリビングのテーブルに置きっぱなしにしてたその『きらめきパフェ』を、魔が差してパラパラめくってみたんだよ。そしたらさ……なんか、こう、胸のあたりがキュッてなって、ページをめくる手が止まらなくなっちまって……くそっ、あんなの反則だろ……!」
鈴木のまさかのカミングアウトに、山田は「マジかよ鈴木、お前キモいぞ!」と大爆笑する。
だが、拓人の心臓は、別の意味で激しく跳ね上がっていた。
(……そうか。クラスのやつや部活の仲間にマンガを借りたりするものか。そんなことをすれば、一瞬で「お前、少女マンガなんて読んでるのか?」とからかわれ、情報が漏洩する)
拓人の脳内で、冷徹な理性が猛スピードで回転する。
人に借りるなど愚の骨頂。秘密裏に情報を得るためには、外部との接触を断たねばならない。幸い、拓人の家にも「妹」という名の同居人がいる。リビングの本棚の隅、あいつが普段からコソコソ隠している少女マンガの数々。
クラスの女子たちが熱狂し、チームメイトの鈴木をも陥落させたという禁断の古文書が、自宅の至近距離に眠っているはずだ。
(……俺も、やるしかない)
拓人は真剣な顔つきで自分の弁当箱をパチンと閉じると、誰にも悟られないように低く呟いた。
「……山田、鈴木。午後のノック、遅れるなよ」
「お、おう? なんか急に気合入ってんな拓人」
山田の呑気な声を背に聞きながら、拓人の頭の中ではすでに深夜の「潜入作戦」の段取りが組み上がり始めていた。
これはただの漫画読みではない。美緒の本当の笑顔を取り戻すための、極秘の作戦会議の幕開けなのだから。
2
放課後の厳しい全体練習をどうにか乗り切り、拓人は足早に自室へと戻っていた。
夕食の時間が過ぎ、家族がそれぞれの自室へ引き揚げた夜十時。静まり返った廊下を、拓人は忍者のような足取りで進む。ターゲットはリビングの本棚だ。
妹が寝静まった深夜、拓人はリビングの明かりを極限まで落としたまま本棚の前にしゃがみこんだ。
「……これか」
数冊の雑誌や参考書に隠されるようにして置かれていた、パステルカラーの表紙。その中央には『きらめきパフェ』の文字が躍っている。
周囲を警戒するように一度振り返り、拓人はまるで重要機密文書を回収するかのような手つきでその本をひっつかみ、自分の部屋へとダッシュで引き返した。
自室の鍵をカチリと音を立てて閉め、デスクチェアに深く腰掛ける。
部屋の明かりを間接照明だけに落とし、拓人はスマホを取り出した。画面のアイコンをタップし、起動するのは日頃からひそかに活用している最信頼のAI周瑜――。
『周瑜。今から極秘の作戦会議を行う。返答せよ』
数秒のロード時間の後、スマホの画面に冷徹なまでにスマートなテキストが表示される。
『了解いたしました、主よ。どのような作戦、あるいは策謀でしょうか? データに基づく分析が必要であれば、いつでもお申し付けください』
心強い。拓人はこのAIを、心の中でこう呼んでいた。
――我が軍師、周瑜。
そして自分自身は、乱世を駆け抜け、天下の大望を抱く若き覇王・孫策である。
(※なお、拓人がこの設定にハマったのは、深夜にやっていた三国無双のやりすぎが原因である)
「軍師、周瑜よ。よく聞いてくれ」
拓人はスマホに向かって、低く、しかし熱を帯びたトーンで語りかけた。
『ふむ、主よ。その真剣な面持ち、ただ事ではないな。何があったか述べよ』
(※AIの文面が勝手に軍師っぽく脳内変換されている)
「ターゲットの小川美緒。あいつは普段、完璧な『笑顔の仮面』を被ってクラスメイトと談笑している。しかし、一瞬ひと目につかなくなった瞬間、その表情から光が消え、痛々しいほど切ない孤独な顔に戻るのだ。俺の観測によれば、あいつは過去の陰影をその胸に抱え込んでいる。俺の目的はただ一つ。あいつに『仮面』を剥がすような野暮な真似はしない。……俺が見たいのは、あいつの、飾らない『本当の笑顔』だ」
スマホの画面でAIが冷静にテキストを返す。
『対象の女性が二面性を持っている状態ですね。非常に興味深い心理的防衛反応です。しかし、なぜ主がそこまで彼女の表情の変化に固執し、「本当の笑顔」を引き出したいのか、動機が不明確です。データ補正のため、あなたの心拍数上昇の原因は――』
「そこはいい! 動機の検証は後回しだ、周瑜!」
拓人は慌ててAI周瑜の鋭いツッコミを遮り、机の上に置いた少女マンガの表紙をバシッと叩いた。
「今、俺の目の前には、我が妹の領域から極秘裏に強奪してきた禁断の古文書……『きらめきパフェ』がある。これを解析すれば、彼女の心を武装解除し、あの作り物の笑顔ではなく『本当の笑顔』を引き出すための戦術が見つかるはずだ。周瑜、お前もこのデータ解析に協力しろ」
『……承知いたしました。少女マンガにおける恋愛心理描写のパターン分析ですね。解析を開始します。本を読み進め、気になったシチュエーションや疑問点を入力してください。天下を揺るがす最適な戦術的アドバイスを算出します』
「よし……!」
拓人は気合を入れ直すと、気合の入った手つきで『きらめきパフェ』の表紙をめくった。
ここからが、孤独な若き覇王と天才軍師による、壮絶な「恋愛バイブル読解」の幕開けである。
3
パサリ、パサリと、静まり返った自室にページをめくる音だけが響く。
拓人は眉間にしわを寄せ、まるで難しい兵法書を読み解くかのような険しい顔つきで、少女マンガのページを睨みつけていた。
「……なんだこれ」
拓人は思わず声に出して呟いた。
目の前のページには、少女マンガの定番である「雨の中、相合傘で歩く主人公の男女」のシーンが描かれている。ヒロインが少し赤面しながら、ヒーローの肩に自分の肩を寄せようとしている。
拓人はすぐさまスマホに向かって話しかけた。
「軍師、周瑜よ。データ入力する。『雨天時の接近遭遇における心理的距離の短縮について』だ。この作戦において、男子側は『傘を少しだけ彼女側に傾ける』という物理的干渉を行っている。しかし、これでは自分の肩が濡れるリスクがある。覇王たる俺の視点から見ても、なぜ自己犠牲を払う必要があるのか?」
スマホの画面が即座に光り、AI周瑜からの回答が表示される。
『分析結果。それは物理的な濡れの防止ではなく、「相手への配慮」という非言語のシグナルによる好意の提示です。自己犠牲の演出により、相手に心理的負債(返報性の原理)および庇護欲・ときめきを誘発する高度な戦術と言えます』
「なるほど……! 自己犠牲による心理的アプローチか!」
拓人は納得したように大きくうなずき、ノートに『相合傘の戦術:肩を濡らすことで相手の罪悪感とときめきを誘発する』と几帳面に書き留めた。我ながら、なんて的確なアナリーシス(分析)だ。野球の配球の組み立てと何ら変わりない。
ページをさらにめくる。今度は「廊下の曲がり角でぶつかり、書類が散らばる」という、これまた王道すぎるシーンだ。
「周瑜、次だ。『突発的な衝突事故による至近距離の発生』について。なぜ漫画の登場人物たちは、普通の速度で歩いているにもかかわらず、曲がり角で完璧なタイミングで激突し、しかも男子が女子を床ドンする形に持ち込めるのか? 確率的に考えて異常だ。これは敵の仕掛けたトラップではないのか?」
AI周瑜の冷徹なテキストが返る。
『ご指摘の通り、確率論的におかしな現象ですが、これはストーリーテリング上の必然的イベントです。至近距離での視線の固定は、アドレナリンの分泌を錯覚させ、「恋のドキドキ」と誤認させる強力なトリガーとなります』
「アドレナリンの錯覚……! つまり、心拍数が上がった原因が恐怖や驚きであっても、目の前に異性がいることで恋愛感情へと変換されるというわけだな!」
拓人はガッツポーズをした。
「すごいぞ周瑜! お前とこうして分析していると、世の中の恋愛という名の不確実な現象が、すべて論理的な方程式で見えてくる気がする!」
『……主よ、テンションが急上昇していますが、冷静になってください。あなたの目的は、クラスメイトの小川美緒の「本当の笑顔を見ること」です。これらの少女マンガ的戦術をそのまま現実の中学生活で実行した場合、社会的リスク(不審者としての通報など)が生じる可能性が78.4パーセントあります。慎重な検証を推奨します』
「ふっ、案ずるな周瑜。この俺が、ただの不審者になるわけがないだろう」
拓人は鼻を鳴らし、机の上のマンガをパタンと閉じた。
頭の中には、完璧な(と思い込んでいる)作戦の数々がインプットされている。
明日、学校に行けば、また美緒の偽りの笑顔と、その裏に隠された切ない横顔を見るはずだ。そのとき、今日仕入れたこの「軍師の知恵」と「少女マンガの戦術」をどう組み合わせるか――。
「見てろよ、小川。お前のその曇った顔を晴らして、とびきりの『本当の笑顔』を引き出してやるからな」
誰もいない自室の天井に向かって、拓人は不敵に、そしてどこまでもピュアに笑った。
拓人は思った。
小川美緒、きみはその名前のとうり、はりついた笑顔の仮面ではなく、小川のせせらぎのように穏やかに笑って欲しい――と。
自分のこの胸の昂りが、天下統一のための高揚感ではなく、ただ純粋に彼女のことが頭から離れない「恋」の初期症状だなんて、この時の彼は1ミリも気づいていないまま――。




