第三話 辻に百の目 03
夜になれば、鬼が出る。
そう信じられていた時代の、話です。
平安京。都でいちばん広い朱雀大路でも、夜になると誰も歩きません。歩けば、何かに遭うから。
それは物の怪か鬼か、それとも……。
この物語の主人公は、その大路を、二十年、歩きました。
誰にも、見つからずに。
派手な術も出ますが、この話の芯にあるのは、もっと別なもの。
――どうか、最後まで。
この小説は実在の人物・事件をモチーフにしたフィクションです。
この作品はカクヨムでも同時投稿しております。
六 数えられなかったもの
どろり、と闇が緩み、絡めとられていた器物が、ばらばらと辻に落ちていく。壺が、鍋が、沓が、櫛が、地に散らばる。百の目は、ひとつ、またひとつと閉じていった。
あとに残ったのは、
小さな、人影だった。
闇の名残でできた、輪郭のあやふやな、童のような影。それが、忍の前に、ぽつんと立っていた。名を問われて、初めて、かたちを得たかのように。
影は、忍の手の中の櫛を見て、それから、忍を見た。そして、ゆっくりと、口のあたりを動かした。声にはならない。だが、忍には、聞こえた。
さがしていた。
ずっと、さがしてくれる人を、さがしていた。
忍は、櫛を、そっと影に差し出した。
「……見つけたよ。ここにいたって、俺が、覚えとく」
影は、櫛を受け取ろうとして――受け取れなかった。もう、そんな力すら、残っていないのだ。かわりに、影は、ふわりと笑ったように見えた。そして、朝靄が晴れるように、静かに、解けて消えた。
辻に、風が戻った。
どこかで、犬が吠えた。虫の音が、戻ってきた。死んでいた音が、生き返った。
そして、辻の四方から、ぞろぞろと、人影が現れた。
消えた十七人だった。誰もが呆けた顔で、なぜ自分がここにいるのかもわからぬ様子で、ふらふらと歩いている。だが、生きていた。誰ひとり、欠けていなかった。
「なんだって?」
貞光が、ぽかんと口を開けている。金時は、拳を振り上げた姿勢のまま固まり、綱は、太刀を下ろして、じっと忍を見ていた。
「攫われた者は、殺されていたわけじゃなかったんだ」
忍は、櫛を握りしめたまま、ぽつりと言った。
「あいつは……ただ、誰かに、いてほしかった。数えてほしかっただけなんだ。だから、人を、集めてた。そばに、置いておきたくて」
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
辻を、ぼんやりと歩く人々。その足元に、散らばった器物。壺も、鍋も、沓も、もう動かない。ただの、捨てられた古物に戻っている。今しがたまで、あれほど猛り、都を恐怖させていた化け物が、こうして見れば、都の誰もが忘れていった塵の山にすぎなかった。
金時が、頭を掻いて、ぼそりと言った。
「なんてこった。おれぁ、塵に拳を叩き込んでたのか」
「違う」と忍は、静かに首を振った。「塵じゃない。誰かの、大事だったものです。全部」
* * *
七 足手まといの、初任務
帰り道。
誰も、しばらく口をきかなかった。夜明け前の都は、しんと静かで、四人の足音だけが、大路に響いていた。
沈黙を破ったのは、貞光だった。ぶっきらぼうに、前を向いたまま。
「……小僧。なんで、あんなことをした」
「あんなこと?」
「名を、訊いたろう。化け物に。斬るのが仕事だぞ、俺たちは」
忍は、少し考えてから、正直に答えた。
「わかりません。ただ、あいつの気配が、寂しそうだったから。それだけです」
貞光は、ちっ、と舌打ちした。それから、まるで自分に言い聞かせるように、ぼそりと呟いた。
「札を百枚使っても、あれは壊せなかった。斬っても、壊しても、増えるばかりだった。……お前は、一枚も使わずに、終わらせた」
それきり、貞光は黙った。だが、その背中は、以前ほど、忍を拒んではいなかった。
「がはは! やるじゃねえか、坊主!」
金時が、また忍の背を叩く。今度は、忍は倒れなかった。少しだけ、踏ん張れた。
綱が、低く言った。
「手柄だ。胸を張れ」
忍は、その言葉を、うまく受け止められなかった。ただ、掌の中の櫛を、握りしめた。
屋敷に戻ると、門のところに、早苗が立っていた。
一睡もせずに、待っていたのだろう。忍の姿を認めると、彼女はぱっと駆け寄って、それから、はっとして立ち止まった。忍が、無傷であることを確かめると、早苗は、大きく息を吐いた。
「……よかった」
忍は、袂から護符を取り出して、返そうとした。だが、早苗は首を振った。
「持ってて。あなた、危ないことばっかりしそうだから」
忍は、少し笑った。生まれて初めて、自然に、口の端が上がった気がした。
その日の午後。
忍は、屋敷の庭の隅に、小さな穴を掘った。そこへ、あの黄楊の櫛を、そっと埋めた。土をかけ、手を合わせる。
名前は、ついにわからなかった。訊ねたけれど、あの影は、答える前に消えてしまった。だから、忍は、心の中で、勝手に呼ぶことにした。
百の目の、あいつ。
それでも。名前がなくても。忍が覚えている限り、あいつは「いなかったこと」にはならない。
緋と翠が、懐から出てきて、盛られた土の上に、ちょこんと並んだ。緋が、供養のつもりか、小さな火の粉をひとつ、ぽう、と灯した。翠が、そこへ、露のような水を一滴。
忍は、二羽の頭を、そっと撫でた。
「ありがとうな。おまえたちも、我慢してくれて」
緋が、拗ねたように、ぷう、と羽を膨らませる。翠は、静かに、目を細めた。
いつか。
忍は、土の上に灯った小さな火の粉を見つめながら、思った。いつか、あんなふうに嘆かなくて済むように。誰かが、誰かを、ちゃんと数えられるように。そのために使える力なら、俺は、強くなりたい。
消えるための力ではなく。守るための力に。
それは、路地裏の子供のころ、木箱の隙間で息を殺しながら、叶うはずもないと諦めていた、あの願いだった。今、その願いは、まだ小さな火の粉ほどの大きさで、けれど確かに、忍の胸の中に灯っていた。
庭の向こうの簀子で、晴明が、扇を弄びながら、その様子を眺めていた。
誰にともなく、彼は呟いた。
「戦わずに、終わらせたか。しかも、隠したまま」
その目は、笑っていなかった。
「面白い。だが、忍。その優しさは、いつか、お前の首を絞めるぞ」
その言葉は、風にまぎれて、誰の耳にも届かなかった。
――第三話 了――
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(更新:毎日22時投稿予定)
隠岐群青




