第四話 夢を視る娘 01
夜になれば、鬼が出る。
そう信じられていた時代の、話です。
平安京。都でいちばん広い朱雀大路でも、夜になると誰も歩きません。歩けば、何かに遭うから。
それは物の怪か鬼か、それとも……。
この物語の主人公は、その大路を、二十年、歩きました。
誰にも、見つからずに。
派手な術も出ますが、この話の芯にあるのは、もっと別なもの。
――どうか、最後まで。
この小説は実在の人物・事件をモチーフにしたフィクションです。
この作品はカクヨムでも同時投稿しております。
一 眠れぬ娘
七条の辻の一件から、十日が過ぎていた。
あれ以来、屋敷での忍の扱いは、わずかに変わった。貞光は相変わらず口が悪かったが、忍に紙を数えさせる際、ついでに呪符の書き方を一つ二つ、投げやりに教えるようになった。金時は忍を見かけるたび背を叩き――忍もいい加減、踏ん張り方を覚えた――綱は、何も言わないが、朝の稽古に忍を混ぜるようになった。木刀を握らせ、ただ打ち込ませる。「隠形は逃げの技だ。逃げるにも、足腰がいる」というのが、綱の弁だった。
忍は、それらのすべてを、うまく受け止めきれずにいた。人に良くされることに、慣れていない。慣れないまま、ただ、掃除の手を早め、水を余分に汲み、木刀を振った。感謝の伝え方を、忍は知らなかったのだ。
そして、その十日のあいだに。
弓削早苗は、五日、眠っていなかった。
正しくは、眠ろうとすると、視てしまうのだ。だから、眠らない。眠らないために、夜通し写経をし、庭を歩き、井戸端で水をかぶった。そうやって五日目の朝を迎えたとき、彼女の顔色は、紙のようだった。
忍がそれに気づいたのは、朝の掃除の最中だった。簀子の柱にもたれて、早苗が立ったまま船を漕いでいる。危うい、と思う間もなく、彼女の膝が折れた。
「おい!」
忍は箒を投げ出し、駆けた。かろうじて間に合い、早苗の体を受け止める。軽い。驚くほど軽かった。腕の中の早苗は、汗ばんでいるのに、肌は氷のように冷たかった。
「あ、れ。ごめん、なさい……」
早苗の焦点は合っていなかった。虚ろな目が、忍を見て、それから、忍の背後の何もない空間を見た。
「また、いる。黒いの。あなたの、後ろに……」
忍は、思わず振り返った。何もいない。朝の光が、白砂に落ちているだけだ。
「早苗。何を視てる」
「糸。黒い糸が、都じゅうに。張って、るの。ぜんぶ、繋がってて。それで、それが……あ」
早苗の目が、ぐるりと裏返った。忍の腕の中で、彼女はぐったりと力を失った。
「誰か! 誰か来てくれ!」
忍が声を上げたのは、生まれて初めてだったかもしれない。路地裏では、誰かを呼ぶことなど、一度もなかったのだから。
* * *
二 弓削の血
早苗は、半日ほど、目を覚まさなかった。
晴明は、彼女の枕元に座り、脈を取り、瞼をめくり、それからしばらく、無言で早苗の顔を眺めていた。忍は、部屋の隅で、身を固くしてその様子を見ていた。
「……疲れだけではないな」
やがて、晴明は言った。
「この娘の血は、厄介でな。忍、弓削是雄という名を知っているか」
忍は首を振った。文字すら、この半月で少し覚えたばかりだ。
「昔の陰陽師だ。夢を占うことにかけては、当代随一と謳われた男でな。人の見た夢から、その者の生き死にすら、言い当てたという。早苗は、その血を引いている」
晴明は、扇で自分の肩をとん、と叩いた。
「だが、血というのは厄介なものでな。技として磨けば宝になるが、磨かぬまま濃く出れば、ただの呪いだ。この娘のは、後者だよ。占おうとせずとも、勝手に視えてしまう。垂れ流しの夢占とでも言うか」
「それは……治らないんですか」
「治らんな。生まれつきだ」
晴明は、こともなげに言った。忍は、その言い方に、かすかな苛立ちを覚えた。
「じゃあ、早苗は、ずっとこうなんですか。眠れば、視て。眠らなければ、倒れて」
「そうだ。だから、この娘は、家に置いておけなくなった」
晴明は、静かに続けた。
「弓削の家は、由緒ある陰陽の家系だ。だが、今の当主にも、その子らにも、是雄ほどの力はない。そこへ、傍流の娘が一人、勝手に視えてしまう目を持って生まれた。どうなると思う」
忍には、想像がついた。痛いほど。
「気味悪がられた、と……早苗は、言っていました」
「そうだ。この娘は、家の恥であり、同時に、家の脅威でもあった。隠したい家のことを、勝手に視てしまうのだからな。追い出されるように、私のところへ来た。十二の歳だ」
晴明は、そこで初めて、少しだけ表情を緩めた。
「三年、面倒を見ている。だが、視るのを止める術は、私にもない。できるのは、眠れぬ夜に、そばに誰かがいてやることくらいだよ」
忍は、夜具の中の早苗を見た。
視たくないものを、視てしまう。それは、隠したいものを、隠しきれないということだ。忍とは、まるで逆だった。忍は隠すことで生き延び、この娘は、隠せないことで居場所を失った。
なのに、この娘は、俺の秘密を、黙っていてくれるという。
忍の胸の奥が、じんと痛んだ。
* * *
三 眠り続ける者たち
その日の夕刻、六合に報せが入った。
五条大路の、とある一角。そこに住む人々が、目を覚まさない、というのだ。
「最初は一人でしたが」と、報せを持ってきた季武が、細い目のまま言った。「今朝には、五人。日暮れには、十四人。同じ町内で、ぱたぱたと」
「病か」と綱。
「熱もない、傷もない。ただ、眠っている。揺すっても、水をかけても、起きない。そして、みんな、うなされている」
季武は、そこで一拍置いた。
「同じ夢を、視ているそうです。黒い糸に、絡めとられる夢を」
忍の背が、ぞくりとした。
黒い糸。早苗が、倒れる直前に言った言葉と、同じだ。
「夢喰み(ゆめはみ)だな」
晴明が、扇を閉じた。ぱちん、と乾いた音が、広間に響く。
「古い怪だよ。人の夢に入り込み、そこにあるものを喰らう。獏の類いと思えばいい。ただし、獏は悪夢を喰って人を癒すが、こいつは違う。こいつが喰うのは、“隠しているもの”だ」
忍の指先が、冷たくなった。
「人は誰しも、隠している。恥も、罪も、未練も、恋も。昼のあいだは、心の底に沈めて生きている。だが、眠れば――夢には、それが浮かび上がる。夢とは、隠しごとが素っ裸で歩き回る場所だからな」
晴明の目が、す、と忍を見た。ほんの一瞬。だが、忍にはわかった。
「夢喰みは、その隠しごとを喰う。喰われた者は、二度と目を覚まさん。心の底を抜かれて、抜け殻になる」
「十四人も」と貞光が唸る。「なぜ、急に湧いた」
「さあな。ただ――」
晴明は、そこで、少しだけ声を落とした。
「夢喰みは、匂いを辿る。より濃い隠しごとの匂いを。この都のどこかに、よほど旨そうなものが、湧いたのだろうよ」
「では、なぜ五条なんです」と貞光。「濃い匂いのする“何か”が湧いたなら、そいつを直に狙えばいい」
「狙えぬからだよ」
晴明は、扇で軽く床を叩いた。
「濃い匂いは、たいてい、濃い守りの内側にある。この屋敷の結界のようにな。そういうとき、ああいうものは、どうすると思う」
誰も答えなかった。
「腹ごしらえだ。周りの、守りの薄い者から、順に喰う。喰えば力がつく。力がつけば、より厚い守りをこじ開けられる。匂いの中心へ、少しずつ、輪を狭めていくのだよ」
忍の指先が、冷たくなった。
「五条は、始まりにすぎん。奴は今、まさに、輪を狭めている最中だ」
忍は、懐を押さえた。
緋と翠が、そこで、身を縮めていた。
* * *
その夜、忍は綱と季武に連れられ、五条の現場を検分した。
狭い町屋の一室に、三人が並べて寝かされていた。老爺と、その娘と、幼い孫。誰もが、静かに、規則正しく息をしている。ただ眠っているだけ、に見える。だが、顔だけが違った。三人とも、眉間に深い皺を刻み、口を薄く開いて、声にならない声を漏らし続けていた。うう、う、と。まるで、何かを訴えようとして、言葉が出ないかのように。
忍は、そっと、その気配を読んだ。
空っぽだ。
三人の体には、たしかに命がある。心の臓は動き、肺は動いている。だが、その奥にあるはずの“奥行き”が、すっぽりと抜け落ちていた。まるで、中身を抜かれた壺のような。
「どうだ、小僧」と季武が細い目で忍を見た。「お前の目には、何が見える」
「……穴が、あいてます」
忍は、正直に答えた。
「この人たちの、いちばん深いところに。えぐられたみたいに」
季武の笑みが、初めて消えた。
「なるほどね。晴明様が、君を連れてこいと言った意味が、よくわかったよ」
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(更新:毎日22時投稿予定)
隠岐群青




