第四話 夢を視る娘 02
夜になれば、鬼が出る。
そう信じられていた時代の、話です。
平安京。都でいちばん広い朱雀大路でも、夜になると誰も歩きません。歩けば、何かに遭うから。
それは物の怪か鬼か、それとも……。
この物語の主人公は、その大路を、二十年、歩きました。
誰にも、見つからずに。
派手な術も出ますが、この話の芯にあるのは、もっと別なもの。
――どうか、最後まで。
この小説は実在の人物・事件をモチーフにしたフィクションです。
この作品はカクヨムでも同時投稿しております。
四 匂いの、出どころ
その夜、忍は眠れなかった。
晴明の言葉が、頭の中をぐるぐると回っていた。より濃い隠しごとの匂い。よほど旨そうなものが、湧いた。
俺だ。
考えるまでもなかった。この都で、忍ほど濃い隠しごとを抱えた者が、他にいるだろうか。十二天将の二柱を、雛の姿に偽装して懐に隠している。それを、誰にも言わず、晴明にすら白を切って、半月。
五条の人々が眠りはじめたのは、いつからだ。
忍が、この屋敷に来てからだ。
忍の背に、冷たい汗が伝った。
俺のせいで。
十四人。うなされ、抜け殻になっていく人々。その顔も名も知らないが、彼らはきっと、路地裏の忍と同じように、ただ日々を生きていただけの者たちだ。それが、忍が秘密を抱えてこの都に来たというだけで。
忍は、懐の二羽を見た。緋が、心配そうに首をかしげている。翠が、そっと忍の指に、羽を寄せた。
「おまえたちの、せいじゃない」
忍は、掠れた声で言った。
「俺が、隠してるからだ。俺が、言わないからだ」
言えばいいのか。晴明様に、すべてを打ち明ければ。この二羽が何なのか、正直に。そうすれば、夢喰みは匂いを失い、五条の人々は目を覚ますのか。
だが、
忍の脳裏に、路地裏の記憶が蘇る。目立てば、狩られる。大事なものは、隠せ。それは、幼い忍が血で覚えた掟だった。緋と翠を明かせば、この二羽は、どうなる。取り上げられるのではないか。晴明の式として、あるいは、朝廷の道具として。忍から、引き剥がされるのではないか。
この二羽は、忍が路地裏で得た、たった二つの、大事なものなのだ。
忍は、膝を抱えた。
守りたいものを守るために隠して、その隠しごとが、他人を喰わせている。どちらを選んでも、誰かが失う。そういう選択が、この世にはあるのだと、忍は初めて知った。
* * *
五 眠れぬ者、二人
庭に出ると、井戸端に、先客がいた。
早苗だった。夜具から抜け出したのだろう、単衣一枚で、桶の水に指を浸している。
「起きたのか」
「うん。半日も寝たから、もう充分」
早苗は、力なく笑った。顔色は、まだ紙のようだ。
「寝すぎると、視るから」
忍は、少し離れて、井戸の縁に腰かけた。夜気は冷たく、月は細い。二人のあいだに、しばらく沈黙が流れた。
「……あなたも、眠れないの」
「ああ」
「秘密が、重い?」
忍は、答えなかった。それが答えのようなものだった。
早苗は、桶の水を、ぱしゃ、と鳴らした。
「あたしね。ずっと、逆のことで悩んでたの。隠せないことで」
「ああ」
「家にいたころ、母様が、隠してることがあってね。あたし、それを夢で視ちゃって。子供だったから、無邪気に、言っちゃったの。朝餉の席で、みんなの前で」
早苗の声は、平坦だった。感情を、意図的に削ぎ落としたような。
「あの日から、母様は、あたしと目を合わせなくなった。父様は、あたしを“弓削の恥”って呼ぶようになった。あたしは、悪気なんて、これっぽっちもなかったのに」
忍は、何と言っていいかわからなかった。
「だからね。あなたが、必死に隠してるのを見たとき、思ったの。ああ、この人は、あたしが壊しちゃったものを、必死に守ってるんだって。だから、黙ってる。あたしはもう、誰かの大事なものを、暴きたくない」
早苗は、そこで初めて、忍を見た。
「でも、忍」
名前を呼ばれたのは、初めてだった。
「隠すのって、すごく、疲れるでしょ」
忍の喉が、詰まった。
疲れる。そんなことは、考えたこともなかった。隠すのは、呼吸と同じだった。疲れるとか、つらいとか、そういう次元の話ではない。生きるとは、隠すことだった。
だが、そう言われて初めて、忍は気づいた。
自分が、ずっと、疲れていることに。
誰にも見つからないように、息を殺して。誰にも数えられないように、気配を薄めて。十年以上、一度も、休んだことがなかった。
忍は、俯いた。何も言えなかった。ただ、その沈黙を、早苗は責めなかった。彼女は、隣で、黙って水を鳴らしていた。
それだけのことが、忍には、驚くほど、あたたかかった。
* * *
六 夢に、堕ちる
異変は、その直後に起きた。
ぱしゃ、と水を鳴らしていた早苗の手が、止まった。
「忍」
早苗は、掠れた声で言った。
「来た」
忍は弾かれたように立ち上がった。
庭の空気が、粘っていた。夜気の中に、何かが混じっている。饐えた、甘い匂い。それが、じわりと、井戸端に忍び寄ってきていた。
いや、空気だけではない。屋敷そのものが、おかしかった。
簀子の向こうの母屋に、灯りがひとつも点っていない。あれほど大勢が寝起きしている屋敷で、人の気配が、まったくしない。綱の鼾も、貞光の寝言も、季武がときおり夜更けに立てる物音も。何ひとつ、聞こえない。
まるで、この井戸端だけが、都から切り離されて、どこか別の場所へ運ばれてしまったかのようだった。
「……晴明様の結界の内側だぞ、ここは」
忍は、掠れた声で言った。
「そんなところに、どうやって」
「入ってきてない」と早苗が言った。
「え」
「夢は、外から来ないの。内側から、開くの」
そして、忍は見た。
庭の松の梢から、地面から、塀の隙間から――黒い糸が、無数に垂れ下がっていた。細く、艶やかで、まるで濡れた髪のような糸。それが、風もないのに、ゆらゆらと揺れている。
糸の先は、すべて、忍を向いていた。
「逃げろ、早苗!」
忍は叫び、早苗の腕を掴んで駆けようとした。だが、遅かった。
黒い糸が、いっせいに、忍へと殺到した。
忍は、反射的に隠形を試みた。消えろ。気配を、断て。だが、
通じない。
糸は、まったく揺らぐことなく、忍の体に絡みついた。手首に、足首に、首に。ひやりとした感触。まるで、髪の毛で編んだ縄のような。
「忍!」
早苗の悲鳴が、遠のいた。
視界が、ぐるりと反転する。忍の足元の地面が、ずぶりと沼のように緩み、彼を呑み込んでいく。
夢に、引きずり込まれる。
その理解が、最後だった。
忍の意識は、黒い糸に絡めとられ、深い、深い、底へと堕ちていった。
* * *
七 隠形、通じず
気がつくと、忍は、路地裏に立っていた。
路地裏。
崩れた築地塀。溝を流れる汚水。筵をかけられた骸。飢えと諦めの匂い。忍が、十年以上を過ごした、あの場所。
だが、おかしい。ここは、都のどこでもない。空がない。太陽もない。ただ、どこまでも、路地裏だけが、続いている。
夢だ。忍は、直感した。
自分の、夢の中だ。
旨そうな匂いだ。
声が、した。どこからともなく。粘つく、湿った声。
路地の奥から、それは、ずるり、と現れた。
巨大な、獣のような影。だが、輪郭は定まらない。象のようにも、獏のようにも、あるいは、ただの黒い塊のようにも見える。全身が、あの黒い糸で編まれていた。そして、その頭部にあたるあたりに――ぽっかりと、口だけが開いていた。目も、鼻もない。ただ、巨大な口だけが。
夢喰み。
ずっと、匂っていた。この都に来てから、ずっと。おまえは、旨い。今まで喰ったどれよりも、旨そうだ。
忍は、身構えた。反射的に、隠形を試みる。消えろ。この夢の中の気配から、消えろ。
だが、
できなかった。
無駄だ。ここは、夢だぞ。
夢喰みの口が、笑うように歪んだ。
夢とは、隠しごとが裸で歩く場所。ここでは、誰も、何も、隠せない。おまえの隠形は、起きているあいだの技だ。ここでは、意味を成さん。
忍は、愕然とした。
通じない。ここでは、通じない。彼の、唯一の武器が。生まれてからずっと、彼を守ってきた、たった一つの力が。
さあ、見せてもらおうか。おまえが、そんなに必死に隠しているものを。
黒い糸が、忍の体を這い上がった。
そして、忍の、懐へ。
忍の胸のあたりが、じわりと熱くなった。緋だ。緋が、目覚めた。糸が、緋に触れようとしている。
「やめろ!」
忍は絶叫した。
だが、糸は容赦なく、忍の懐をこじ開けた。
そして、
二羽の孔雀が、夢の路地裏に、放り出された。
* * *
八 暴かれる
夢の中の緋と翠は、雛の姿では、なかった。
現実で、掌にのるほど小さかった二羽が、ここでは、成鳥の姿を取っていた。
緋は、燃える緋色の羽を、路地いっぱいに広げていた。羽の目玉紋のひとつひとつが、炎の瞳のように爛と輝いている。その一羽が、そこにいるだけで、夢の路地裏の空気が、ゆらゆらと陽炎のように歪んだ。
翠は、深い水底の色の羽を、静かに広げていた。その周囲だけ、時が止まったように、しん、と凪いでいる。
夢は、隠しごとを、暴く。
偽装が、剥がれていた。
これは。
夢喰みの、巨大な口が、だらりと開いた。涎のように、黒い糸が滴る。
これは、これは。天将ではないか。それも、二柱。
なぜだ。なぜ、こんな小僧が。名もなき、路地裏の塵のような小僧が、天将を二柱も飼っている。
ああ、なんという、ご馳走だ。
黒い糸が、いっせいに、緋と翠へと殺到した。
緋が、猛った。甲高く鳴き、翼を薙ぐ。炎が奔り、糸の束を焼き払った。翠が、翼を差し伸べ、水の膜を張って、迫る糸を受け流す。
二羽は、強かった。夢の中でさえ、いや、夢の中だからこそ、その本性の力を隠しきれずに、圧倒的だった。
だが、
糸は、無限だった。焼いても、受け流しても、路地裏の闇そのものから、際限なく湧いてくる。ここは、夢喰みの領域なのだ。
そして、忍は気づいた。緋と翠が戦うたびに、夢喰みの口が、嬉しそうに歪むことに。
そうだ。もっと、暴れろ。もっと、力を見せろ。
喰い甲斐がある。
忍の背筋が、凍った。
こいつは、緋と翠を、喰うつもりだ。
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(更新:毎日22時投稿予定)
隠岐群青




