第四話 夢を視る娘 03
夜になれば、鬼が出る。
そう信じられていた時代の、話です。
平安京。都でいちばん広い朱雀大路でも、夜になると誰も歩きません。歩けば、何かに遭うから。
それは物の怪か鬼か、それとも……。
この物語の主人公は、その大路を、二十年、歩きました。
誰にも、見つからずに。
派手な術も出ますが、この話の芯にあるのは、もっと別なもの。
――どうか、最後まで。
この小説は実在の人物・事件をモチーフにしたフィクションです。
この作品はカクヨムでも同時投稿しております。
九 痛みを、差し出す
忍は、必死に頭を回した。
隠形は、使えない。緋と翠は、戦えば戦うほど、この化け物を喜ばせる。逃げ場はない。ここは、忍自身の夢の中なのだから。
夢とは、隠しごとが裸で歩く場所。
夢喰みの言葉が、忍の頭の中で反響した。
隠しごと。喰うのは、隠しているもの。
……ならば。
忍は、拳を握った。
ならば、緋と翠より、旨いものを、差し出せばいい。
「おい」
忍は、叫んだ。夢喰みの口が、ぎょろりと(目もないのに、たしかに)忍を向いた。
「そんなもの、喰って旨いのか。そいつらは、力だ。ただの、力だ。もっと旨いものが、ここにはあるぞ」
なに。
「俺が、いちばん隠してるものは、そいつらじゃない」
忍は、両手を広げた。夢の路地裏の、真ん中で。
「ここだよ」
忍は、心の底の蓋を、こじ開けた。
その瞬間、夢の路地裏が、変わった。
冬の朝。痩せ細った赤子を抱いたまま、冷たくなっていた母親。忍は、木箱の隙間から、それを見ていた。消えて、見ていた。助けなかった。助けられなかった。
腕を折られ、高熱を出して、そのまま姿を消した、年上の子。名前は、なんといったか。もう、思い出せない。忍は、その子が引きずられていくのを、消えて、見ていた。
誰にも数えられなかった、無数の日々。名を呼ばれず、いてもいなくても同じものとして、路地の隅に転がっていた、その冷たさ。
そして。
俺は、逃げてばかりだ。消えて、隠れて、見ないふりをして、生き延びているだけの、卑怯者だ。
忍が、この世でいちばん深く隠していたのは、力ではなかった。
この、後ろめたさだった。
夢喰みの口が、大きく、大きく開いた。
ああ。
ああ、ああ、ああ! なんだ、これは!
こんなに、こんなに、澱んだ、甘い、深い痛みが!
黒い糸が、緋と翠を捨てて、いっせいに忍へと殺到した。
忍は、目を閉じた。
喰え。
そのかわり、この子たちには、指一本、触れさせない。
糸が、忍の内側へ、なだれ込んだ。
激痛だった。心の底を、素手で掻き回されるような。忘れたはずの記憶が、次々と引きずり出され、喰われていく。母の骸。友の名。冬の朝の、白い息。
忍は、悲鳴を上げなかった。
ただ、緋と翠のほうへ、背を向けて立っていた。この二羽と、化け物のあいだに、自分を置くように。
それは、忍が生まれて初めてとった、「隠れない」姿勢だった。
* * *
十 跳ぶ娘
忍の意識が、白く濁りはじめたとき。
ばかっ!
声が、した。
夢の路地裏の空が――ない空が、裂けた。
そこから、一人の娘が、落ちてきた。
早苗だった。
早苗は、地に降り立つと、忍と夢喰みのあいだへ、体を割り込ませた。両手を広げて。忍を、庇うように。
「早苗! なんで――」
「夢は、あたしの領分だよ!」
早苗が、叫んだ。その声には、これまで忍が聞いたことのない、強さがあった。
「弓削の血が、こんなときに役に立たなくて、どうするの!」
邪魔を、するな。
夢喰みの糸が、早苗へも伸びる。だが、早苗は、退かなかった。
「忍。あなた、何やってるの。自分を、餌にして」
「そうしないと、緋と翠が」
「ばか」
早苗は、振り返らずに言った。
「一人で全部背負って、黙って喰われて。それ、誰も救われないから。あなたが消えたら、あの子たちだって、どうなるの」
忍は、言葉を失った。
早苗が、印を結んだ。
「夢喰み。あなた、勘違いしてる」
彼女の周囲に、光の糸が生まれた。黒い糸と同じ形の、しかし白く輝く糸が。
「夢は、隠しごとが裸で歩く場所――そうね。でも、それだけじゃない」
早苗の光の糸が、黒い糸に絡みつき、するすると解いていく。
だが、その糸の何本かが、途中で、ぷつりと切れた。編みきれていない。早苗の鼻から、つう、と血が伝った。彼女は、それを拭いもせずに、なお印を結び続けている。
「夢は、その人が、いちばん守りたいものが視える場所でもあるの」
早苗が、忍を指した。
「この人が、あなたに差し出したのは、痛みじゃない。“それでも守りたい”っていう、意志だよ。あなた、それを喰おうとして、逆に、絡めとられてる」
夢喰みの口が、ぐにゃりと歪んだ。初めて、狼狽するように。
なに――
実際、夢喰みの黒い糸は、忍の記憶を喰らうほどに、その記憶の芯にある“守りたい”という熱に触れて、ぶすぶすと焦げはじめていた。喰えば喰うほど、それは夢喰みの内側で燃えた。忍の後ろめたさは、裏を返せば、「守れなかった」という悔恨であり――それは、「守りたかった」という願いの、別の名前だったからだ。
「緋!」
早苗が、叫んだ。
「今よ!」
緋が、猛然と羽ばたいた。
絡めとられ、内側から焦げていた夢喰みは、もはや糸を操れなかった。緋の炎が、その巨躯を、真正面から呑み込んだ。翠の水が、逃げ道を塞ぐように、路地の四方を封じる。
夢喰みは、断末魔すら上げられなかった。
黒い糸が、ぱらぱらと解け、灰のように散っていく。
夢の路地裏が、崩れはじめた。
そして、消える間際。
夢喰みの、最後の呟きが、忍の耳に届いた。
なぜ、隠す。
そんなに、灼けるものを。喉を灼く。臓腑を灼く。……なぜ、抱いて、生きていられる。
* * *
十一 目覚め
目を開けると、井戸端だった。
空が、白みはじめていた。忍は、地面に横たわっていた。全身が、鉛のように重い。
隣で、早苗が、ぺたんと座り込んでいた。彼女もまた、ぼろぼろだった。だが、その顔には、なぜか、晴れやかな笑みがあった。
「勝った」
「ああ」
「五条の人たち、たぶん、目を覚ますよ。糸が、切れたから」
忍は、ゆっくりと身を起こした。懐で、緋と翠が、心配そうに顔を出す。雛の姿に戻っていた。忍は、震える指で、二羽の頭を撫でた。無事だ。無事だった。
それだけで、失った記憶の何もかもが、安いものに思えた。
「……ねえ、忍」
早苗が、言った。
「視ちゃった。ぜんぶ」
忍の手が、止まった。
「あの子たち。ほんとは、あんなに大きくて、綺麗なんだね。それに、たぶん、あれ、そんじょそこらの式神じゃないよね」
言い返す材料が、一つもなかった。
早苗は、忍の答えを待たなかった。かわりに、彼女は、こう言った。
「あたし、忘れる。ううん、忘れられないけど。忘れたことにする」
「早苗」
「言ったでしょ。あたしはもう、誰かの大事なものを、暴きたくないの」
早苗は、そこで、初めて忍を真正面から見た。
「でもね、忍。ひとつだけ、言わせて」
彼女の目が、潤んでいた。
「あなた、さっき、自分を餌にしたでしょ。ためらいもせずに。あれ、見てて、すごく、怖かった」
「……」
「あなたは、自分のことを、いちばん要らないものだと思ってる。だから、平気で差し出せる。それ、いつか、あなたを殺すよ」
忍は、黙っているしかなかった。
早苗の言葉は、晴明の言葉と、奇妙に重なっていた。――その優しさは、いつか、お前の首を絞めるぞ。
やがて、朝の光が、屋敷の屋根を照らしはじめたころ。
門のほうが、にわかに騒がしくなった。走り込んできたのは、季武だった。細い目を、めずらしく見開いている。
「起きた! 五条の連中、みんな起きたぞ!」
季武の背後から、綱と、金時と、貞光も現れた。誰もが、寝起きの顔で、しかし安堵していた。
「十四人、全員だ。腹が減ったと騒いでるらしい」と季武が笑う。
忍は、その報せを、地面に座り込んだまま聞いた。
助かった。全員、助かった。
その事実が、じわじわと、忍の胸に染みてくる。七条の辻のときとは、また違う感覚だった。あのときは、化け物を憐れんだ。今度は、人を、救ったのだ。忍が、消えずに、立ち向かったから。
守れた。
生まれて初めて、忍は、その言葉を、自分のものとして味わった。
簀子の陰から、白い狩衣が現れた。
晴明である。いつからそこにいたのか、彼はいつもの飄々とした顔で、二人を見下ろしていた。
「見事なものだ」
「晴明様」と早苗が慌てて居住まいを正す。
「夢喰みを、二人で仕留めたか。よくやった。五条の者たちも、じきに目を覚ますだろう」
晴明は、ゆっくりと歩み寄り、忍の前に立った。
「忍。ひとつ、教えておこう」
その声は、いつになく、静かだった。
「夢喰みは、匂いを辿る。つまり、お前がこの都で隠しごとを抱えている限り、ああいうものは、これからも寄ってくる」
忍の胸が、一度、強く打った。
「私にも、わからんことがある」
晴明は、そこで、めずらしく言い淀んだ。
「隠すというのは、静かにしていることのはずだ。なのに、なぜ、ああいうものは寄ってくるのか。匂いとは、なんの匂いなのか。隠しているものそのものが匂うのか、それとも――隠している、というその行いが、匂うのか」
忍は、息を呑んだ。
「もし後者なら、話は面倒だぞ。隠せば隠すほど、匂いは濃くなる、ということになる。だが、それを確かめた者は、いない。確かめようとした者は、みな喰われたからな」
「……なら、どうすれば」
「わからん」
晴明は、あっさりと言った。
「だから、選べ。明かして匂いを断つか。隠したまま、寄ってくるものを片端から叩き潰せるだけ強くなるか。どちらが正しいかは、私にも言えん。言えんが――」
晴明は、そこで、忍の目を覗き込んだ。
「お前は、もう選んでいるだろう。顔に書いてある」
忍は、拳を握った。
答えは、もう決まっていた。この二羽を、手放すつもりはない。ならば――
「強く、なります」
その答えを聞いて、晴明は、ふ、と笑った。
だが、その目は、やはり笑っていなかった。
「そうか。ならば、明日から、修行だ。掃除はもういい」
晴明は、踵を返した。そして、背を向けたまま、こう付け加えた。
「お前が、その二羽を隠しきれるほど強くなるまで。この都は、待ってくれんぞ」
白みはじめた空の下、忍は、ぼろぼろの体で、それでも、まっすぐに立っていた。
懐の中で、緋が、誇らしげに鳴いた。翠が、そっと、忍の胸に寄り添った。
その日の夕方、忍は、初めて“それ”に気づいた。
庭を掃きながら、ふと、思い出そうとしたのだ。
あの、冬の朝に冷たくなっていた、赤子を抱いた女の顔を。忍が、木箱の隙間から、消えて見ていた、あの人の顔を。
思い出せなかった。
箒を持つ手が、止まった。
いや、記憶自体は、ある。冬の朝だったこと。赤子を抱いていたこと。自分が助けなかったこと。事実としては、ちゃんと残っている。
だが、顔が、ない。
のっぺりとした、白い空白があるだけだ。声も、思い出せない。あの人が、忍の名を呼んだことがあったのか、なかったのかさえ。
そして、それを思い出そうとしても――何も、感じなかった。
悲しくない。苦しくない。胸が痛まない。ただ、事実が、事務的に並んでいるだけだ。まるで、他人の話を、又聞きしているような。
忍は、その場に、しゃがみ込んだ。
喰われた。
ようやく、わかった。夢喰みが持っていったのは、「後ろめたさ」という都合のいい荷物ではない。あの人たちの、顔だ。声だ。忍が、たった一人で、十年以上、抱えて生きてきた、その重みそのものだ。
あの重みが、あったから、忍は、消えることを恥じていられた。逃げることを、卑怯だと思っていられた。それが、忍の背骨だった。
それが今、すっぽりと、抜けている。
俺は、あの人たちを、二度、見捨てたんだ。
一度目は、路地裏で、消えて見ていたときに。
二度目は、昨夜、自分の秘密を守るために、あの人たちの顔を、化け物に差し出したときに。
忍は、両手で顔を覆った。
泣けなかった。悲しみごと、喰われてしまったからだ。それが、なによりも、恐ろしかった。
大丈夫?
懐から、翠が顔を出して、忍の頬に、そっと羽を寄せた。緋が、心配そうに、忍の指をつつく。
忍は、震える手で、二羽を撫でた。
「大丈夫だ」
嘘だった。だが、忍は、そう言うしかなかった。
この子たちを守るために、忍は、あの人たちの顔を売った。それが、忍が選んだことだ。悔いはない、と言えば嘘になる。だが、もう一度同じ場面に立っても、忍は、同じことをするだろう。
それが、いちばん、恐ろしかった。
だから、覚えておこう。
忍は、顔から手を離し、立ち上がった。
顔は、思い出せない。声も、名前も。だが、「思い出せない」ということだけは、忘れずにいよう。それだけが、忍にできる、たった一つの弔いだった。
七条の辻で、名もわからぬ櫛に、「俺が、覚えとく」と言ったように。
今度は、覚えていられなかった自分を、覚えておく。
それが、隠して生きるということの、値段だった。
その誓いすら、いつか、輪郭を失っていくことを。
このときの忍は、まだ、知らない。
――第四話 了――
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(更新:毎日22時投稿予定)
隠岐群青




