第五話 反閇、地を踏む 01
夜になれば、鬼が出る。
そう信じられていた時代の、話です。
平安京。都でいちばん広い朱雀大路でも、夜になると誰も歩きません。歩けば、何かに遭うから。
それは物の怪か鬼か、それとも……。
この物語の主人公は、その大路を、二十年、歩きました。
誰にも、見つからずに。
派手な術も出ますが、この話の芯にあるのは、もっと別なもの。
――どうか、最後まで。
この小説は実在の人物・事件をモチーフにしたフィクションです。
この作品はカクヨムでも同時投稿しております。
一 修行、はじまる
晴明の言う「修行」は、忍が思い描いていたものとは、まるで違った。
術を教わるのだと思っていた。九字だとか、呪符だとか、そういう、いかにも陰陽師らしいものを。だが、修行が始まって最初の三日、忍がやらされたのは――走ることだった。
「走れ」と綱は言った。
それだけだった。屋敷の外周を、朝から晩まで。飯のときだけ止まってよい。日が暮れたら寝てよい。翌朝また走る。
四日目、忍の膝は笑い、足の裏は血豆だらけになった。それでも綱は、腕を組んで庭に立ち、「走れ」としか言わなかった。
「なんで、走るんですか」
五日目の夕暮れ、ついに忍は訊いた。恨みがましく聞こえないよう、精一杯、平坦な声で。
綱は、しばらく黙っていた。それから、ぼそりと答えた。
「お前の技は、消えることだ」
「はい」
「消えて、どうする」
忍は、答えに詰まった。
「消えたあと、逃げるのか。近づくのか。回り込むのか。どれをするにも、足がいる。消えるだけの技は、技じゃねえ。ただの、逃げ足だ」
綱は、そこで初めて、忍を見た。
「お前の隠形は、いい技だ。だが、今のお前は、消えて震えてるだけの子供と、大して変わらん。消えた先で、何ができるか――そいつを決めるのが、足腰だ」
忍は、何も言えなかった。図星だったからだ。
六日目、忍はまた走った。今度は、誰に言われるでもなく、日が沈んでからも走った。
* * *
二 貞光の、呪符
十日目から、貞光がついた。
貞光は、忍を蔵の一室へ連れ込むと、紙と筆と墨を、どん、と置いた。
「書け」
「何を」
「線だ」
貞光は、手本を一枚、放って寄越した。そこには、ただ一本、縦の線が引かれているだけだった。
「同じものを、千枚書け。同じ太さ、同じ長さ、同じ速さで。一枚でも違えば、その日の分は捨てる」
忍は、面食らった。呪符というのは、あの、複雑な文字や記号を書くものではないのか。
だが、書き始めて、すぐにわかった。
同じ線が、引けないのだ。
一枚目と二枚目で、墨の乗りが違う。十枚目には、手が震える。百枚目には、線が波打つ。二百枚目には、自分が何を書いているのかわからなくなる。
「呪符ってのはな」
貞光は、忍の隣で、涼しい顔で自分の分の札を書きながら、言った。
「紙に、力を通す道を作る技だ。線が揺れれば、力が漏れる。漏れれば、術は死ぬ。線一本ぶれずに引ける奴だけが、字を書く資格がある」
忍は、三日かけて、ようやく千枚を通した。貞光は、その束を、ぱらぱらとめくって、
「六百二十枚目から先は、まあまあだ。前は捨てろ」
と言った。
容赦がない。だが、忍は、その容赦のなさを、ふしぎと苦にしなかった。この男は、忍を「使えない新入り」として突き放しているのではない。使えるようにするために、突き放している。それくらいのことは、路地裏で人の悪意を嗅ぎ分けてきた忍には、わかった。
夜、局に戻ると、忍の右手は、握ったまま開かなかった。
緋が、心配そうに、その指をつつく。翠が、ひやりとした羽を、腫れた手の甲にあててくれた。
「大丈夫だ」
忍は、痛む手で、二羽の頭を撫でた。
「ようやく、教えてもらえるようになったんだ。これくらい、なんでもない」
* * *
三 季武の、方位
季武の稽古は、また毛色が違った。
彼は忍を、屋敷の一室に閉じ込めた。窓のない、四方を壁に囲まれた、真っ暗な蔵の中である。
「さて、問題だ」と、戸の向こうから季武の暢気な声がした。「北は、どっちだ」
忍は、面食らった。真っ暗で、何も見えない。だが、ここへ来る途中の道順は覚えている。忍は、記憶を頼りに、たぶんこっち、と指をさした。
「はずれ。九十度、ずれてる」
戸が開き、季武が、細い目で笑っていた。
「陰陽師にとって、方位ってのはね。“覚えるもの”じゃない。“感じるもの”なんだよ」
季武は、忍を蔵に押し戻した。
「じゃ、感じられるようになるまで、そこにいなさい」
それから、三日。
忍は、暗闇の中で、ひたすら座っていた。飯だけは運ばれてきた。厠のときだけ出された。それ以外は、ただ、闇。
最初の一日、忍は何も感じなかった。ただ、暗くて、退屈で、少し怖かった。
二日目、妙なことが起きはじめた。闇に目が慣れる、というのとは違う。闇そのものに、“質”があると感じはじめたのだ。北の壁のほうの闇は、冷たく、重い。南の壁のほうは、わずかに、軽い。東は、なんとなく、動いている。西は、静まっている。
三日目の朝、戸が開いたとき、忍は季武の顔を見る前に、指をさしていた。
「北は、あっちだ」
季武の細い目が、めずらしく、まん丸に開いた。
「……三日か。私は、半年かかったんだけどねえ」
忍は、答えなかった。答えられなかった、というほうが正しい。
蔵を出た瞬間から、目が回っていたのだ。北が“わかる”ということは、常に北に引っ張られるということでもあった。歩いていても、飯を食っていても、体の芯が、絶えず北を指している。眠ろうとすると、寝床が回った。
その晩、忍は、三度、厠で吐いた。
方位を感じるとは、方位から逃げられなくなることだった。
季武は、頭を掻いて、忍を蔵から出した。そして、出しなに、ぼそりと言った。
「君、それ、遁甲の素質だよ。方位を“渡る”術の。普通の陰陽師は、盤を使って方位を割り出すんだ。君みたいに、肌で当てる奴は、そういない」
忍は、その言葉を、深く考えなかった。
だが、後になって、それが、自分の血の話だったのだと知ることになる。
* * *
四 反閇
ひと月が過ぎたころ、晴明が、初めて庭に出てきた。
「反閇を教える」
晴明は、白砂の上に立った。
「陰陽師の術には、いろいろある。占って知る術、符に籠める術、祭って願う術。そのなかで、反閇はいちばん、単純だ」
「単純?」
「歩くだけだからな」
晴明は、す、と足を踏み出した。
ただ、歩いた。それだけに、見えた。
だが――
庭が、鳴った。
地の底から、ずうん、と低い響きが伝わってきた。白砂が波打ち、池の水面がざわりと逆立ち、松の枝から鳥が一斉に飛び立った。忍は、思わず尻餅をつきそうになった。足元の大地が、まるで巨大な生き物の背中のように、ぐるり、と身じろぎしたのだ。
晴明は、七歩で止まった。
庭が、しん、と静まる。
「今の。何をしたんです」
「歩いた」
「歩いただけで、地面が」
「地には、脈がある」
晴明は、扇で足元を指した。
「人の体に血の道があるようにな。山から野へ、野から都へ、水と気の流れる道がある。反閇とは、その脈の上を、正しい順で、正しい重さで踏むことだ。正しく踏めば、地は応える。応えさせて、そこに何かを起こす。それが反閇の術だよ」
「起こすって、何を」
「凶を割る。禍を踏み散らす。あるいは、封じる」
晴明は、そこで、ちらりと忍を見た。
「やってみろ」
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(更新:毎日22時投稿予定)
隠岐群青




