第五話 反閇、地を踏む 02
夜になれば、鬼が出る。
そう信じられていた時代の、話です。
平安京。都でいちばん広い朱雀大路でも、夜になると誰も歩きません。歩けば、何かに遭うから。
それは物の怪か鬼か、それとも……。
この物語の主人公は、その大路を、二十年、歩きました。
誰にも、見つからずに。
派手な術も出ますが、この話の芯にあるのは、もっと別なもの。
――どうか、最後まで。
この小説は実在の人物・事件をモチーフにしたフィクションです。
この作品はカクヨムでも同時投稿しております。
五 地が、応える
忍は、白砂の上に立った。
晴明が示した歩型は、単純だった。左足から。踵から下ろし、爪先で押す。半歩ずらして、また左。七歩で、北へ。
忍は、言われたとおりに、歩いた。
何も、起きなかった。
当たり前だ、と忍は思った。晴明様は当代随一の陰陽師で、自分は、術のひとつも使えない新入りだ。ひと月走って、線を千枚引いただけの。
「もう一度」
晴明の声は、静かだった。
忍は、もう一度歩いた。何も起きない。三度目。四度目。五度目。
十度を超えたころ、忍の額に汗が浮いた。血豆の潰れた足の裏が、じくじくと痛む。二十度を超えたころには、足が縺れはじめた。
「もう一度」
晴明は、それしか言わなかった。
三十度目。
もう、忍は、何も考えていなかった。踏むことしか。左、右、左。踵から、爪先へ。地面を、感じることしか。
そのときだった。
足の裏に、何かが、触れた。
いや、触れたのではない。忍が、触ったのだ。
地面の、ずっと下。白砂の下、土の下、岩の下。そのさらに下を、太い、太い流れが、ゆっくりと脈打っていた。都の北の山から流れ込み、この庭の下を通って、南へ抜けていく、巨大な脈。
忍は、息を呑んだ。
見えた。
いや、見たのではない。隠形と同じだった。消えるとき、忍は、周りの気配の“隙間”に自分をはめ込む。今、忍は、地面の“隙間”に、足の裏を、はめ込んでいた。
その瞬間、忍の足が、勝手に、次の一歩を踏み出した。
どん。
庭が、鳴った。
いや、鳴ったのは、庭だけではなかった。
ずうん、と。
響きは、庭を越え、塀を越え、大路を越えて――どこまでも、どこまでも、広がっていった。忍は、その響きが伝わっていくのを、足の裏で感じていた。北へ。東へ。西へ。南へ。都の隅から隅まで。まるで、巨大な鐘を、内側から叩いたように。
そして都が、応えた。
忍には、たしかに、そう感じられた。この都の下に眠る、途方もなく大きな何かが、身じろぎして、こちらを、じっと見た。
そして、忍は、その一瞬に、視てしまった。
都の姿を――上から見下ろしたような、途方もない眺めを。
碁盤の目に走る大路。北の宮城。四方の門。点在する社と寺。それらが、ただの町並みではなかった。線が、線が、無数に引かれていた。大路は、線だった。社は、結び目だった。門は、留め金だった。都そのものが、巨大な、途方もなく精緻な――
――符だった。
誰かが、この都を、一枚の呪符として、設計したのだ。
では、この符は、何を封じている?
その問いが浮かんだ瞬間、地の底の“何か”が、忍のほうを、向いた。
だれだ。
おまえは、だれだ。
声ではない。だが、そう問われた気がした。
忍の足が、止まった。
全身から、汗が噴き出していた。膝が、がくがくと震えている。
庭は、しん、と静まり返っていた。
白砂に、忍の足跡が、七つ。
その足跡の周りだけ、砂が、綺麗な同心円を描いて、波打っていた。
そして――
晴明が、立ち尽くしていた。
あの、食えない男が。何を見ても動じなかった男が。扇を握ったまま、身動きひとつせず、忍の足跡を、じっと見つめていた。
その横顔から、いつもの笑みが、消えていた。
* * *
六 見なかったことに
たいしたものだ。
しばらくして、晴明は、そう言った。いつもの声で。いつもの笑みで。まるで、たった今、何も起きなかったかのように。
「ひと月でここまで来るとは、思わなかったよ。もういい。今日はここまでだ」
「晴明様」
忍は、震える膝で、なんとか立った。
「今の……なんですか。何かが、俺を、見たような」
「気のせいだ」
晴明は、即答した。
その速さが、かえって、忍には不自然に思えた。
「反閇を踏めば、地は応える。応えれば、地の底にいるものが、寝返りを打つこともある。ただの、それだけのことだ」
「でも」
「忍」
晴明は、忍の言葉を遮った。
「今日のことは、忘れろ」
その声は、静かだったが、有無を言わせぬものがあった。
「誰にも言うな。綱にも、季武にも、貞光にも。早苗にもだ」
忍は、言葉を失った。
この人は、今、何を隠そうとしているのだ。
俺の、隠しごとを、見抜いておきながら。
この人にも、隠しごとがある。
その事実に思い至ったとき、忍の胸に、初めて、晴明への疑いが芽生えた。
その夜。
忍は、こっそり庭へ出て、あの足跡を確かめようとした。
だが、白砂は、綺麗に均されていた。同心円の波も、七つの足跡も、跡形もなく。誰かが、丁寧に、消していったのだ。
忍は、その均された砂を、長いこと、見つめていた。
* * *
七 式を、宿せ
試練は、その数日後にやってきた。
庭に、六合の全員が集められた。晴明が、白砂の上に、いくつかの札を並べる。
「今日は、式神の作法を見る」
忍の胸が、詰まった。
「六合の任は、単独で動くことが多い。式ひとつ操れねば、話にならん。早苗、まず、お前から」
早苗が、進み出た。彼女は、印を結び、低く唱える。すると、彼女の足元の影が、す、と伸びて、一匹の白い兎の姿になった。
小さい。だが、たしかに式神だった。
「まあ、こんなものか」と晴明。「小動物どまりだが、この歳なら悪くない。夢占に力を割いている分、こちらは伸びんな」
早苗は、少し悔しそうに、しかし従順に、頭を下げた。
次いで、貞光が、一羽の鴉を。季武が、細い蛇を。金時が、なんと熊のような巨大な獣を呼び出し、庭を揺らした。綱に至っては、半透明の、鎧をまとった武者の影を、二体。
「人型か」と晴明が頷く。「綱、お前は相変わらず、格が違うな」
忍は、それを、呆然と見ていた。
人型。晴明が以前、こともなげに言っていた。人型を出せるのは、超一流の証だと。綱は、それを二体、無造作に出してみせた。しかも、まだ「児童」の背丈だ。成人の姿ではない。ということは、これでもまだ、頂点ではないということか。
六合とは、そういう場所なのだ。
「忍」
晴明が、呼んだ。
忍は、白砂の上に進み出た。
全員の視線が、集まる。
忍の懐で、緋が、そわそわと身じろぎした。まるで、「出番か?」とでも言うように。翠が、それを、そっと押さえる。
――だめだ。
忍は、目を閉じた。
絶対に、だめだ。
ここで緋か翠を出せば、どうなる。神獣どころではない。この二羽の正体は、綱の人型すら、遥かに凌ぐ。庭中の全員が、忍を、化け物を見る目で見るだろう。晴明は――あの人は、どうする。
忍は、印を結んだ。晴明に教わったとおりの、形だけの印を。
そして、何も、しなかった。
何も、起きなかった。
* * *
八 劣等生
沈黙が、庭に落ちた。
「もう一度」と晴明。
忍は、もう一度、印を結んだ。そして、また何も起こさなかった。
三度目。四度目。
やがて、貞光が、我慢しきれずに言った。
「本当に、宿せんのだな」
その声には、以前のような侮蔑はなかった。むしろ、困惑と、わずかな同情があった。それが、忍には、いっそう堪えた。
「まあ、いいじゃねえか」と金時が明るく言う。「辻の一件じゃ、こいつが一番手柄だったんだ。式なんぞなくたって――」
「金時」
綱が、低く遮った。
「甘やかすな。こいつが次に立つのは、酒呑の類いかもしれん。そのとき、式ひとつ出せずに、どうする」
庭が、静まり返った。
綱の言葉は、正しかった。誰よりも、忍自身が、それを知っていた。
出せる。
忍の胸の内で、声が叫んでいた。
出せるんだ、俺は。誰よりも。綱様の人型より、ずっと上のやつを、二体も。
でも、出せない。
嘘をつくことには、慣れていた。路地裏では、嘘は米より大事だった。
だが、これは、違った。
自分を、実際より弱く見せる。それは、忍がこれまでやってきた「消える」ことと、よく似ていて――まるで違った。消えるのは、誰にも迷惑をかけない。だが、こうして皆の前で無能を演じることは、この人たちの善意を、裏切ることだった。
綱は、忍のために、ひと月「走れ」と言い続けた。貞光は、忍のために、千枚の紙を無駄にさせた。金時は、忍のために、庇ってくれた。
その全部に、忍は、嘘で応えている。
俺は、卑怯者だ。
夢喰みに喰われたはずの後ろめたさが、また、新しく、忍の胸の底に、澱のように溜まっていった。
「もういい」
晴明が、扇を閉じた。
「忍は、式を宿せん。それでいい」
「晴明様!」と貞光が声を上げる。「それでいいって、あなた」
「そういう者もいる、というだけの話だ」
晴明は、事実を読み上げるように言った。
「弓を引けぬ者に、弓を持たせて何になる。こいつには、こいつの得物がある。それを磨かせるのが、私の仕事だよ」
そして、晴明は、忍を見た。
その目が――ほんの一瞬、ひどく、優しかった。
まるで、忍が嘘をついていることを、知っていて。
その嘘を、庇うように。
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(更新:毎日22時投稿予定)
隠岐群青




